「私たちは何を見ているのか」ルカによる福音書7:36~50

深谷教会聖霊降臨節第8主日礼拝2023年7月16日
司会:悦見映兄
聖書:ルカによる福音書7章36~50節
説教:「私たちは何を見ているのか」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-475
奏楽:野田周平兄

 説教題 「私たちは何を見ているのか」   ルカ7章36節~50節            
              
 親しい関係を示す時「同じ釜の飯を食う」と言う言葉が使われます。食事を共にするということには、特別な意味があるからです。通常は、教会の中心には「主の食卓」である聖餐卓があります。今もそうだと思いますが、主イエスの当時のユダヤでは、食事の前後には神さまへの祈りをささげたと言われています。つまり、ユダヤ人にとっては、食事も礼拝の行為の一つなのです。ですから、祈りを共にできない者とは決して食事を共にしなかったようです。本日の聖書の箇所の直前に主イエスは、こう言われています。
「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなた方は、『悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(ルカ7:33~35)。主イエスは、食事の場面で「神の国」の説明をしておられるのです。ローマの手先となって同胞を苦しめている徴税人や律法の規定を守っていない人々、つまりユダヤ社会では罪人とされていた人々と主イエスは、喜んで食事をされておられたのです。そうされたのは、彼らを神の国に招くためです。決して律法を守らせるためではありません。そいう主イエスを見て、「大食漢で大酒のみだ」と非難する者がいます。その人たちには、主イエスが徴税人や罪人たちと食事をする目に見える現象だけを見て、その奥にあるものが見えなかったからです。
 本日の箇所では、主イエスはファリサイ派の人から食事に招かれた時のことが記されています。また、「一人の罪深い女」(7:37)の人がその食事の席でしたできごとが記されています。この罪深い女性は、おそらく娼婦だと思われます。だれも好き好んで娼婦になるわけではないのです。生きていくためにしかたなく娼婦となったのです。しかし、娼婦を利用するのは男です。利用しながら罪人として軽蔑する。そいう構図がここにあります。彼女は、そういう軽蔑の眼差しをいやと言うほど感じていました。そして、自分でも自分を許せないどうしようもない思いがあったのでしょう。その彼女がファリサイ派の人の招待に応えた主イエスが食事の席に着いていることを知り、彼女は香油が入った石膏の壺を抱え、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(7:38)のです。
 主イエスを招待した人物シモンは、目の前で起こっていることを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人かを分かるはずだ。罪深い女なのに」(7:39)と心の中で思いました。ファリサイ派のシモンが主イエスを招いたのは、この地域で預言者として有名になりつつあった主イエスを値踏みするためだったのです(7:44~46)。主イエスは、そんな彼の心を見抜いて、彼にたとえ話をされました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(7:41,42)。もちろん、シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(7:43)と、答えました。主イエスは、その答えに共感され、彼女の方を振り返られて、シモンに「この人を見ないか」(7:44)と言われました。この女性がしたことを見ていたにも関わらずそのことの意味も分からずにいるシモンでしたが、それに対して主イエスは、この女の姿、行為が何を表しているかを深く読み取っておられます。 
 主イエスは、シモンに「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(7:47)と言われ、「あなたの罪は赦された」(7:48)と女に言われた。主イエスにとって、彼女の行為は、自分の罪と関係するものなのです。罪は、自分と神さまを分断します。彼女は、好き好んで罪を犯しているわけではないのです。生きようとすればするほど罪が積み重なってしまうのです。罪の深さゆえに、彼女は、主イエスこそ罪を赦す権威を神さまから与えられ遣わされた方であることが分かったのでしょう。だからこそ主イエスを愛し、主イエスを「キリスト(救い主)」と信じ受け入れたのだと思います。この女性の愛と信仰が主イエスには分かったのです。だから、主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7:50)と言われたのです。シモンはじめ、この家に招かれている人々は、主イエスを値踏みするだけで、ここで起こっていることの真相を見ることができないのです。このシモンの家にいる人々は、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」(7:49)と考え始めました。
 今日の箇所に二度出てくる「罪深い女」(ハマルト―ロス)は、「罪人」と言う意味で徴税人ザアカイにも使われています。主イエスは悔い改めたザアカイに向かって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから、人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(19:9,10)と言われました。この時、ザアカイの家の周りでは、群衆たちが「罪深い男」(19:7)の家を尋ねたり、宿にしたりすることに対して不満を言っていました。しかし、群衆が言っているような罪人を救い、神さまのために生きる者にしてくださるのが主イエスの「救い」であり、そこに「罪の赦し」があるのです。
 また、主イエスの遺体に油を塗りに来た女たちに、天使は「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(24:7)と言いました。ここで「罪人」と訳された言葉は、「罪深い女」「罪深い男」と訳されている言葉と同じです。主イエスは私たちと神さまとの交わりを隔てる壁である罪を打ち壊すために神さまが遣わされたのです。そのために主イエスが罪人の手に渡され、十字架で神さまの裁きを受けられたのです。神さまはその主イエスを復活させられました。そのことを抜きに、私たちに罪の赦しは与えられず、救いは与えられないのです。その事実を知り、受け入れるために信仰が必要だと思います。そして、私たちキリスト者は、聖霊の導きによる恵みによって信仰が与えられたのです。その信仰によってしか、神さまが私たちを救うために何をしてくださったか、その真相を見抜くことはできないのです。

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