「箴言の知恵の国際性と特別性」 箴言22:17~22

「聖書の学びの会」2023年7月12日

★法亢聖親牧師からのメッセージ

 箴言の知恵の国際性と特別性     箴言から学ぶ 箴言22章17~29節 

 「貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからです。」(22:22、23口語訳)
 「弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。貧しい人を城門で踏みにじってはならない。主は彼らに代わって争い、彼らの命を奪う者の命を、奪われるであろう。」(22:22、23新共同訳)
 「貧しい者を、彼らが貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。」(22:22、23新改訳聖書)
 「貧しい人や病人のものを横取りしてはなりません。神は見ています。そんなことをする者は必ず罰せられます。」(22:22、23リビングバイブル)

 『アメンエムオペト(アメンエムオペ)の教訓』という古代エジプトの文章がります。実際に読んでみますと既視感(きしかん)を覚えるかと思います。
 第一章 汝の耳を傾け、述べられること(ば)を聞け。それらを理解するため、汝の心を与えよ。心に留めておくのはよいことだ。なおざりにするものには禍(まが)があろう。汝の心にて鍵となるために、それらを腹の小箱にしまっておけ。・・・。
 第ニ章 虐げられた者から奪うことのないよう心せよ。腕折れたる者を抑圧することのないようよう」(古代オリエント集)。
 これらを、箴言22章17,18や22節と読み比べてみると、非常によく似ていることが分かります。しかも類似している箇所は、この箇所以外にもたくさんあるのです。これは偶然とは考えられません。
 この『アメンエムオペト(アメンエムオペ)の教訓』と箴言との文学上の関係については、100年以上前から多くの学者が説明を試みてきました。箴言の編者が『アメンエムオペト(アメンエムオペ)の教訓』を借用したと考える学者もいれば、その逆だと主張する学者もいます。残念さがらどの説も決定的なものではありませんが、少なくともいえることは、これらの言葉が国際的な知恵の伝統の中で育まれて来たものだということです。
 イスラエルの知者は、自国民の中だけで閉じこもるお山の大将ではありませんでした。ソロモンが、「東のすべての人々の知恵と、エジプトのすべての知恵」の中に身を置いたように、箴言の編者も他国に開かれた精神を持っていたのでしょう。この他者への態度は、私たちにとっての良き模範です。
 ただ、覚えておかなければいけないのは、箴言とエジプトの知恵文学には、共通点と共に相違点もあるということです。何よりも違うのは、土台となる神観です。
 箴言は、一貫して唯一まことのイスラエルの神、主を畏れることを求めています。たとえば、すでに見てきたように、箴言22章22節では弱者から奪うことが禁じられていますが、その直後の23節では、その理由がはっきりと記されています。それは、主が貧しい者の側に立たれるからです。また、2節に目を向けますと、さらに箴言の意図がはっきりしてきます。貧しい者を造られたのは、ほかでもなく主だからこそ、人は彼らと丁寧に関わる必要があるのです(14:31、17:5)。
 また、このことを旧約聖書の広い文脈に置くと。主の御心が良く分かってきます。たとえば、レビ記19章13~16節では、弱い者を虐げないことと正当な裁判を行うことが教えられていますが(本日の箇所の22節に出てくる「門」は裁判の場所でした)。ここではこの教えが神を畏れることと結びつけられています。
 このように、外国の知恵との関係に目を留めるだけでなく、旧約聖書の脈絡に置いて、意味合いを汲み取る必要があるのです。益々「主により頼むことができるように」(19節)期待しつつ、箴言のことばに耳を傾けていきたいものです。

 天の父なる神さま 
近隣の国々の知恵文学との対話の中で、練られていったことばに触れることができますことを感謝いたします。この箴言の言葉を生ける神さまの言葉(真理)として、受け止めさせてください。    御子の御名によって祈ります。  アーメン

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