「異邦人の救い」ルカによる福音書8:22~29

深谷教会聖霊降臨節第7主日礼拝2023年7月9日
司会:山口奈津江姉
聖書:ルカによる福音書8章22~29節
説教:「異邦人の救い」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-462
奏楽:小野千恵子姉

 説教題 「異邦人の救い」   ルカ8章22節~29節     

 教会では主イエスを「イエス・キリスト」と呼びます。イエスと言う名は救いが歴史的な存在である面を、キリストと言う名は救い主が普遍的な存在である面を表しています。即ち、救い主の十字架の死は人間の罪の赦しのためであり、主イエスは復活して今も生きておられるキリスト(救い主)であるという信仰を私たちは与えられているのです(第1コリント12:3)。この事は私たちにとって感謝なことです。この信仰によって私たちは救われ、神さまに向かって生きる者とされたのです。
 パウロは、この点について次のように言っています。
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピ3:12)本当にその通りだと思います。私たちは、キリストに捕らえられているからこそ、キリストを追い求め続けることができるのです。
 8章の25節に「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか。」と言う弟子たちの主イエスへの疑問の言葉が記されています。この問いは、今日にいたるまで私たちの疑問です。そしてもう一つの疑問があります。ルカ福音書の7章で主イエスは、罪深い女性に対して「あなたの罪は赦された」(7:48)と言われました。その場に居合わせた人々は、「罪まで赦すこの人はいったい何者だろう」(7:49)と考え始めました。その人々の前で、この女性に向かって主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7:50)と言われたのです。ここに出てくる「罪」「赦し」「信仰」が、今日の聖書の箇所でも問題になります。この問題をしっかりと考えることなく、主イエスと私たちの関係を考えることはできないと思います。 
 私たちの信じる神さまは、「天地を創造された神さまである」という信仰が根底にないと主イエスがどういうお方であるか、また、神さまはどういうお方なのかも見えてきません。天体や自然を拝んだりしないということは大事なことです。自然を支配するお方は神さまです。主イエスは神さまから遣わされてこられたお方です。弟子たちはそのことを忘れることがしばしばありました。しかし、自然は神さまが造られたということと、個々の自然現象に神さまが介入されることを信じることは別の次元のことと思います。
 本日の聖書の箇所の前半で伝えている真理は、主イエスが自然現象を変えられたという点にあるのではなく、主イエスが共におられるということです。私たちの人生は、目的地の港<神の御国の港>を目指す航路にたとえられます。そして、その港を目指す教会は舟にたとえられます。ノアの箱舟のような舟です。帆も、舵も、舟をこぐオールもありません。つまり自分で方向を決めて、自力で進むことのできない舟です。つまり、神さまに聴き、神さまにすべてを委ねて進む舟です。
 主イエスはある時、弟子たちと一緒に舟に乗っておられました。そして、「湖の向こう岸に渡ろう」(8:22)とおっしゃいました。そこは異邦人が住む地でした。異邦人とは、ユダヤ人にとっては、単に外国人と言うだけのことではなく、神の民に選ばれたユダヤの民とは違う、神さまから選ばれなかった民と言う意味合いが強いのです。主イエスは、そのような民の地へ行こうと言われたのです。舟に乗りしばらくすると主イエスは、お眠りになられました。するとガリラヤ湖に突風が吹きあれ、弟子たちを乗せた舟は、木の葉のように大きく揺れ、大波に飲み込まれそうになりました。
 本日の出来事は、異邦人の医者ルカが、当時の異邦人キリスト者の多くいたアンティオキア教会の現状と重ね合わせてルカ福音書を記したと考えることができます。そうした見方をすると本日の聖書の箇所は次のように解釈することができるのではないでしょうか。
 「主イエスは、異邦人の地、まことの神さまを知らない人々の地を示すために向こう岸に行こうと言われ、その地に住む人々にも神さまの招きを与えようとされた」と。
 ヨハネの黙示録に次のような不思議な言葉があります。「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。確かにそうかもしれません。でも「永遠に生きたい」と誰もが願っているのです。ガリラヤ湖の向こう岸にいた男に共感しながら思いをめぐらせてみましょう。彼は悪霊にとりつかれ、裸で墓場に住んでいました。しかし、主イエスの姿を見て、他の人とは違う何かを主イエスに感じたのです。彼は主イエスの前に出て行きました。主イエスは即座に、彼にとりついている悪霊に、「男から出て行け」(8:29)と命じられました。この男は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(8:28)と言いながら、主イエスの前に出てくるのです。弟子たちは「先生」と呼んでいるのに、主イエスにかまってほしくない異邦人である墓場に住む男は「神の子イエス」と言いながらひれ伏しました。主イエスは、彼の中に巣くっていた悪霊を豚の中に追い出しました。男はゲラサの地を出て主イエスに従おうと願いました(8:38)。しかし、主イエスは「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話してきかせなさい」(8:39)。」と命じられました。
 主イエスは、まことの神さまを知らない異邦の地に行き、その地の墓場に裸で住み、悪霊にとりつかれ、人々から見捨てられた人のところに行きその異邦の地で神さまに向かって生きる者に造り変えてくださるのです。主イエスと出会い、主イエスは神であることが信仰によって分かる時、人と神さまを分断していた罪が赦され、誰でも神さまに向かって生きる人間に変えられるのです。そして、キリストによって結ばれた新しい契約は、その救いが異邦人の地でもたらされ、異邦人も救いへと招かれていることを表しているのです。

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