「聖書の学びの会」2023年6月28日
★ 法亢聖親牧師からのメッセージ
「愚かさにふけるのではなく」 箴言17章9~20節
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」(17:9口語訳)
「愛を求める人は罪を覆う。前言を翻(ひるがえ)す者は友情を裂く。」(17:9新共同訳)
「愛を追い求める者は背きの罪を覆う。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。」(17:9新改訳聖書)
「愛のある人は人の過ちを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。」(17:9リビングバイブル)
箴言は、理想だけを掲げる非現実的な格言ではありません。箴言の著者は、人間の現実をよくわかっていて、知恵のことばに耳を傾けようとしない人々がいることを知っています。その代表例が「愚か者(愚かな者)」です。
箴言では、この「愚か者」を表すことばがおもに三つ使われていますが、そのことばが現れる箇所は、実に70節以上にも及びます。箴言の示す知恵とは何かを学ぶためには、それとは正反対の方向に突き進む、この愚か者について知ることが不可欠です。
箴言において、愚か者とは、記憶力が悪い人や計算が苦手な人を指してはいません。むしろ、姿勢や態度、考え方に問題がある人のことを指しています。彼が、愚か者と呼ばれるのは、主を畏れず、知恵と訓戒を蔑(さげす)み(1:7)、知識を憎み(1:22)空虚な安心に満足し(1:32)、悪事を楽しみとしているからです(10:23、13:19)。愚か者の愚かさは、ある意味で、積み重ねられた選択の結果なのです。
この愚か者については、本日の箇所である17章でも、繰り返し触れられています。まず、16節には、愚か者がいかに安易な考え方を持っているかが記されています。彼は、お金さえ出せば知恵は手に入ると勘違いしているのです。また、24節には次のように記されています。「さとき者はその顔を知恵に向ける、しかし、愚かな者は目を地の果てにそそぐ。」(口語訳)、「悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ」(新改訳)。この「目を地に注ぐ」というのが何を指しているのかは、はっきりとはわかりません。集中力がないさまを描いているという人もいれば、及びもつかない壮大なものに心惹かれている姿を記していると考える人もいます。ともかく、さとき(悟りのある)者のように、しっかりと知恵に顔を向けるのではなく、あさっての方に目を向けているということは確かです。
こんな愚か者でも、黙ってさえいれば、知恵のある者とみられるのですが(28)、彼はやはり愚か者ですので、自分の愚かさを言いふらしてしまいます(13:16、18:2)。しかも、彼はその愚かな生き方を離れようとはしません。たとえ、百回むちを撃たれても、彼には効き目がないのです(10)。
このようにして、愚か者は自滅していくのですが、彼の厄介なところは、周囲を巻き込むことです。彼は、彼の両親の悩みの種となり(21、25)、争いごとの火種となります(14、20:3)。
この愚か者は、箴言において反面教師として示されているのでしょう。しかし、同時に私たちとまったく無縁の存在ではありません。むしろ、自分のために蓄えても、神さまに対して富まなかったり(ルカ12:20,21)、主のみ心が何であるかを悟らないなら(エペソ5:17)、私たちも愚か者となるのです。
ただ、そのような自覚をもつことから、知恵の道は始まります。9節には「愛を追い求める者は背きの罪を覆う」とありますが、神さまはまさに背きと罪を覆ってくださる方なのですから(詩編32:1、85:2)、この方の前に自分の背きを覆い隠さずに、憐みを受ける者とされていきましょう(28:13)。