「今日を大切に生きましょう」 マタイによる福音書6:25~34

深谷教会聖霊降臨節第5主日礼拝2023年6月25日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:マタイによる福音書6章25~34節
説教:「今日を大切に生きよう」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-196
奏楽:野田治三郎兄

説教題 「今日を大切に生きましょう」   マタイ6章25節~34節     

 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ:6:25)
 この「命」と訳されている言葉は、ただ肉体の命と言うことではなく、人間の全存在、人間のかけがいのない値打ちを意味する言葉です。それは食べ物をはるかに超えて尊いものです。また、私たちの体即ち、肉体は同様にそれを包む衣服よりもはるかに大切なものです。私たちが食べ物や着る物のことであれこれ心配する時に、実は私たちのことを心配してくださるお方がおられるのです。命の授与者である父なる神さまは、子である私たちの大事な命や私たちの体について心配してくださっておられるのです。25節の御言葉は、そのことに気づくようにとの勧めです。
 主イエスは、「空の鳥、野の花」を信仰の模範として示されました。それでは私たちは「空の鳥、野の花」から何を学ぶことができるのでしょうか。
 第1に、「空の鳥や野の花」が今の時をひたむきに生きている姿です。日本語の一所懸命(一生懸命)と言う言葉のもともとの意味は、「一つ所に命をかける」ということだそうです。野の花は、文字通り、その場所で生きるほかありません。しかし、野の花たちは、その場所で、精いっぱい咲いています。またもう一方の空の鳥は、自由に飛び回ることができますが、一つ所で命をかけて生きる姿は、本質的に同じだと思います。「空の鳥、野の花」が置かれている場所は、必ずしも安全なところではありません。野の花は、「明日は炉に投げ込まれる」かもしれませんし、鳥だっていつ捕まえられるかもしれません。そうした危険な状況の中でなんとか生きながら、今という時を光輝いて、美しく生き切ろうとしています。それはどうしてでしょうか。すべてを神さまに委(ゆだ)ねて生きているからです。
 それに引きかえ、私たち人間は、暗い汚点に満ちた過去に目を奪われ、後悔の念にとらわれ、くよくよしてしまうことがあります。また、予想もつかない将来に目を向ける時に、思い悩みます。現実問題として、私たちに与えられた今日を、そうした過去の後悔や将来に対する不安や思い煩いで生き切ることができなくなってしまうことがあります。
 しかし、そうした私たちのために主イエスがこの世に来られ、死んで、復活され今は、聖霊となられて働いておられることをしっかりと受け止めたく思います。そのことはまず、私たちの過去がどのようなものであったとしても、主イエスによって担われ、贖(あがな)われているということを意味しています。ですからそれを現在に手繰(たぐ)り寄せる必要はないのです。主イエスによって私たちの暗い過去は、ゆるされ清算されているのです。ですから主にあって忘れてよいのです。パウロも、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13,14)と言っています。さらに主イエスが死んで復活されたということは、私たちの将来に対する思い煩いからも解放します。なぜそのように言えるかと申しますと、私たちの不安に満ちた将来は、イエス・キリストの配慮(御手)の中に包まれているということだからです。私たちは、自分の将来、未来は、どうなるかは知ることはできませんが、主イエスはご存知です。主イエスは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)と仰っています。つまり、「今を生きよ、過去や、未来の不安から解放されて、すべてをわたしに任せて、十分に生きよ」と勧めておられるのです。
 第2に「空の鳥、野の花」から学ぶことは、「無力さ」です。「空の鳥は種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めません」(26)。しないのではなくできないのです。神さまに委ねて生きることしかできないのです。自分の無力さを徹底的に知る者こそ、自分を生かしてくださる神さまの偉大な力を知っているということです。私たちが自分の力に頼って生きようとする時に、神さまは登場されません。出てくる余地がないからです。ところが神さまが一番良い道を備えてくださっていることを信じ、すべてを主に委ねて生きる時に、神さまが登場し、そのお力を見せてくださるのです。それは、聖霊の働きであって目には見えませんが確かに神さまが働いていることが、霊の目(信仰の目)で見ると見えるのです。「キリストの力がわたしたちの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9,10)。つまり、私たちの弱さを認め欠けた存在であることを受け入れて、私たちの命や体にとって、また家庭にとって、教会にとってすべて必要なものをご存知であるお方に助けを祈り求めるようにと勧めておられるのです。
 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・あなた方の天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日一日で十分である」(6:31~34)。
 「神の国」とは、神さまのご支配が行き渡っているところです。その神さまの愛の御力に頼りつつ委ねつつ、「神さまの義」即ち、神さまがよしとしたもう道を歩んで行くならば、どのような状況の中にあっても主にある平安の道を生きていけるとおっしゃっておられるのです。聖霊となられて永遠に生き働かれる主を心の内にお宿して歩む、主と共に歩む人生へと導かれるのです。本日の主の御言葉、約束を信じて、今日と言う日を精一杯に生きて参りましょう。そうする時、私たちの人生・生涯が、空の鳥や、野の花のように美しく光輝くことと思います。

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