「小羊の会」2023年6月22日
★ 法亢聖親牧師からのメッセージ
「信仰により義としたもう」 ヨハネ15章16節
「信仰義認」という言葉をお聞きになったことがおありだと思います。プロテスタント教会では、このことをとても大切にしています。「聖書のみ」、「万人祭司」と共に宗教改革の3大原理の一つと言われています。
信仰義認とは、信仰によって義と認められるということです。この表現は、パウロの手紙ローマ書3:28に記されています。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」。義とされるとは元々裁判用語で裁判官が法廷で無罪を宣言することを言いました。これをパウロは、キリストを信じる信仰によって罪人は義しい者と認められる、罪が赦されると主張しました。パウロの時代の人々は、旧約聖書に記されている沢山の律法を守り行うことにより義と認められ神に受け入れられると信じられていました。パウロもこの方向で懸命に努力をしたのですが律法を完全に守ることのできない自分を発見して途方に暮れるばかりだったのです。こうしたパウロに全く新しい光が射しました。それは彼に代わって律法を完全に満たしたキリスト、彼の罪を全部背負って十字架について犠牲となり罪の赦しをもたらしてくださったキリスト、このお方をわがためなり、と信じ受け取れば義とされる、無罪放免とされ、神との関係回復に至るというものでした。ここに導かれて彼ははじめて深い喜びと平安に満たされました。自分の行いではなくキリストの行いに依り頼むことでした。
これはまさに福音(よい知らせ)ですが、この福音の再発見が1500年後、M・ルターによってなされました。ルターにより訳されたドイツ語聖書では、ローマ3章28節は「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰のみによる」となっています。
ルターは当時修道僧として難行苦行を重ねていました。修道生活のなかでは、彼は平安を得ることができませんでした。かえって神は、正しい行いを要求する厳しい神として迫ってくるばかりでした。こうしたルターをパウロ同様、キリストの光が捕えました。当時のカトリック教会は、救いには行いも必要としていましたが、ルターはキリストへの信仰のみで十分であるとし、ここに安らぎを得ました。信仰のみ。キリストの恵みのみ、行いはそのあとでよいのです。私たちも常にこの原点を忘れないようにしたいものです。
☆注 ハイデルベルグ信仰問答 59参照