「彼女の身に起こったこと」 マルコによる福音書5:25~34

深谷教会聖霊降臨節第4主日礼拝2023年6月18日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マルコによる福音書5章25~34節
説教:「彼女の身に起こったこと」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-280
奏楽:野田周平兄

説教題 「彼女の身に起こったこと」 マルコ5章25節~34節
 
 本日の聖書の箇所には、12年間も出血が止まらなかった女性のことが記されています。主イエスの時代のユダヤでは、男女の差別があるだけでなく、女性には生理や出産時の出血に対しても穢れているなどと言う偏見が根強くありました。たとえば律法の書の一つレビ記15章25節には、「もし生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れている」とあります。と言うことは、この女性は、12年間ほぼ青春時代を汚れた者として差別と偏見を受け、辛く苦しい不幸な人生を生きていたということになります。
 本日の聖書の冒頭の25節から27節は、原文ではワンセンテンスで書かれています。「さて、ここに12年間も出血が止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」と動詞の分子形を使い、文章を途中で区切らないで一気に書かれています。
 マルコは、この出来事の詳細をこの女性本人から直接聞いたのではないでしょうか。自分の不幸な個人史を懸命にしゃべるこの女性は、これまでの苦しみ不幸に満ちた日々の生活を一気にしゃべったのです。それを聞いたマルコはその話に圧倒されながら、彼女の言葉通りに書き留めたのでこの長文となったのではないでしょうか。平行記事のマタイやルカは客観的にそっけなくこの女性の記事を書いています。客観的にこの出来事を書いている他の福音書と違い、マルコ福音書は主観的な表現や体感的な表現でこの女性の癒しの出来事を書いています。たとえば、「すぐ出血がまったく止まって病気が癒されたことを体に感じた」(29節)、「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり」(33節)など、その本人でなければ表現できない「体感できない」ことを記しています。このように「体に感じた」、「自分の身に起こった」と言う表現をマルコ福音書が使っているのは、マルコ自身がこの女性から直接話を聞いて、それをもとにこの記事を書いたことを示唆しているのではないでしょうか。
 また、マルコ福音書はこの病気の女性の側からイ主エスを書いています。そして同時に主イエスの側からも書いているのです。その点をよく見てみますと、まず彼女は「病気が癒されたことを体で感じ」ています。一方、それに呼応するように主イエスは「自分の内から力が出て行ったことに気づいて」おられます。二人はほぼ同時にお互いの体で感じ合っているのです。彼女の病気が癒されたことと、主イエスの体から力が出て行ったことをお互いの体でそれぞれに感じることが起こっているのです。この主イエスとの相互の体感を交流体感と言ってもよいと思いますが、そのことこそが主イエスとの出会いであり、ここでは病気の癒しとなって起こっているのです。
 「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのは誰か』と言った」(30節)。この主イエスの行動は不思議に見えます。彼女はすでに癒されているのですから、余分な行為に思えます。どうして主イエスはこうした行動をとられたのでしょうか。
 主イエスの後ろから服を触ったこの女性は、出血は癒されましたが、しかしそのままでは以前と同じように蔑視と差別の中を生きて行かなければならなかったからです。ユダヤの律法では、汚れた病気が癒されたなら祭司のところに行ってみてもらい癒されたことの認定を受けなければならないという規定があったからです。ですから、肉体的に癒されたとしてもそれは単なる治癒であっても、それは癒しではありません。女性の生活がユダヤ社会に受け入れられてはじめて癒されたことになるのです。そこで主イエスは、偉大な祭司でもありましたから、彼女が癒されたことを公に宣言し、完全に社会に復帰できるようにしようとされたのです。
 さて、この出血で苦しむ女性の物語は、主が病気で苦しんでいる人々を癒され、その苦しみから解放してくださるということのほかにもう一つの真理を伝えています。それは主イエスの十字架上で流された血潮と復活を指し示していると思います(この物語がヤイロの娘のよみがえりの物語の間に置かれていることからも)。
 マルコ福音書では、「出血」と言う言葉を本日の5章25節と29節、そして最後の晩餐において主イエスが「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(14:24)の三回しか使われていません。さらに彼女が「体で感じた」という“体”と言う言葉も、ここ以外ではすべて“主イエスの体”としてだけしか使われていません。また、最後の晩餐で主イエスがパンを裂いて「これはわたしの体である 」(22)と言われた“体”とここでの”体“とは同じ語が使われています。この女性の体から流れ出る血が、その血によって汚れている体を、主イエスが十字架の上で流された血、そして主イエスが裂かれた体と重ね合わせて理解していると考えられます。
 12年間続いた出血と体は、彼女にとっては恥ずかしさと苦しみそのものでした。しかし彼女の出血と汚れたとされた体は、今主イエスの十字架の血と体と交流し、新しい契約のしるしとして、彼女の体の中で体感されているのです。
 「わたしの服に触れたのはだれか」、主イエスはこの女性を見出そうとします。彼女は主イエスの言葉に、「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてありのまま話した」(33)。
 ここでの「恐ろしくなり、震えながら」という表現は、復活の主と出会った時の婦人たちが示した姿と同じです(マルコ16:8)。この姿こそ彼女の場合の復活体験と言えるのではないでしょうか。主イエスはここで実は復活の主として彼女に出会っておられる、と理解することができるのです。このことから、本日の12年間も出血が止まらなかった女性の物語は、ヤイロの娘のよみがえりの記事との関連から病気の癒しの物語であると共に、復活の主との出会いの体験(新しく生まれ変わって生きる者)の物語でもあると言えると思います。

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