「その終わりが死となる道を避けて」 箴言14:11~27

「聖書の学びの会」2023年6月14日

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

「その終わりが死となる道を避けて」  箴言14章11~27節 

 「心のもとれる者はそのしわざの実を刈り取り、善良な人もまたその行いの実を刈り取る。」(14:14口語訳)
 「二心ある者は自らの道に、善人は自らの業に飽かされる。」(14:14新共同訳)
 「信仰を亡くした人は自分に嫌気がさしますが、神を畏れる人の生活には活気があります。」(14:14リビングバイブル)
 
 「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」(12節)
 背筋が寒くなる言葉です。まっすぐに進んでいると思っていたのに、気づけば死に向かっているなんて・・。「もし、自分の道がそうだったとしたら・・・」と考えると、恐ろしくなります。          
 この「終わりが死となる道」とは、一体どのような道なのでしょうか。このことを考える手がかりが12章15節にありました。それによると、自分の歩みがまっすぐに見えているのは、愚か者であることが分かります。そして、その愚か者とは、忠告を聞き入れない者を指しているようです。同様の考えは、今日の箇所の14節にも見て取れます。「心の放埓(ほうらつ)な者」、堕落した者は、自分の道に満足しているので、それがふさわしいかどうかを顧みることをしないのです。笑うときにも心は痛み、やがて喜びも悲しみとなるのですが、それでも方向転換を図りません。
 それでは、この「終わりが死となる道」を避けるためには、どうすればよいのでしょうか。8節と15節には、「愚かな者」と対極にいる「賢い人」の態度が示されています。彼の特徴は、自分の歩みを見極めるところにあります。つまり、良識を働かせて吟味することが、賢い人が賢い人である所以なのです。また、このことは、どんなことでも安易に信じないことも意味します。また、続く16節からは、根拠のない自信を捨て、慎重に悪を避けることが、知恵の歩みだということがわかります。
 ただ、それ以上に重要なのは、やはり神さまとの関係です。2節には次のようにあります。「まっすぐ歩む者は主を畏れ、曲がった道を行く者は主を侮る」ここには、まっすぐ歩む者と曲がった道を行く者を分けるのは、主を畏れるか、主を侮るかにあると記されています。
 また、26、27節からは、主を畏れることに力ある「よりどころ」があり、「命の泉」があることがわかります。そして、この主を畏れることこそ、「死の罠(わな)」から離させるものです。つまり、主の前の自分の立場をわきまえつつも、大胆に主に信頼することが肝心なのです。
 では、私たちはどの道を進んでいるのでしょうか。クリスチャンであるならば、死の道にまっしぐらということはないかもしれません。けれども、他者の忠告に耳を塞(ふさ)いで、突き進んでしまうことはないでしょうか。ひとりよがりの確信にしがみつき、自分の道にこだわることはないでしょうか。真偽の定かでない情報を、安易に信じてしまうことはないでしょうか。私たちは、常に主を畏れ主に頼りつつ、自分の道を見極め、自分の歩みを吟味しなければなりません。そうでなければ、自分と他者を生かすことができなくなってしまいます。
 せっかく私たちの内に、永遠のいのちへの水が湧きでる「いのちの泉」(ヨハネ4:14)が与えられているのですから、死の道、死のわなを避け、いのちを存分に味わい、いのちを分かち合う者でありたいものです(10:11,13:14、18:4)。

〇 悖る(もとる) 「反する」、「背く」の意 使い方→人の道に悖る
〇 飽かす(あかす)「多くありあまっているものを十分に使う」の意  飽きさせる→ 使い方:聴衆を飽きさせない

天の父なる神さま  
 私たちが自分の感覚、自分の判断により頼むのではなく、謙遜に主により頼み、主にあって自分の歩みを見極めることができますように。主にある畏れをもって、主から教えられつつ生きることができますように
                    み子の御名によって祈ります。 アーメン     

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