「婚宴のたとえ」マタイによる福音書22:1~14

深谷教会聖霊降臨節第3主日礼拝2023年6月11日
司会:渡辺清美姉
聖書:マタイによる福音書22章1~14節
説教:「婚宴のたとえ」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-436
奏楽:野田治三郎兄

説教題 「婚宴のたとえ」   マタイによる福音書22章1~14節

「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)
 マタイ福音書には、天の国について様々なたとえが沢山記されています。
 本日の聖書の箇所では、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(2節)とあります。信仰生活と言うと、厳しい緊張した生活を想像する人もあるようですが、しかし、実は喜びのパーティーに招かれるようなものなのです。しかも王子の結婚式のために国王が開くパーティーですから、これ以上のパーティーはないと思います。
「王は家来たちを送り婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」(3節)。
 当時の正式な招待には二重の手続きがあったようです。まだ日程が定まらない時に一般的な招きがなされ、その後日程も決まり万全な準備が整ったところで、改めて迎えを出し呼びに行かせるというのです。神さまの私たちに対する招きも、これに似ています。私たちはまず、聖書を通して、「神によって招かれている」ことを知るのですが、ある日突然、「私」のところへ招きに来られるのです。
 ところがこのたとえによると、正式に招かれた人々は、その招きに応えようとしませんでした。それで王は、今度は別の家来、もっと位(くらい)の高い家来を遣わしました。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」(4節)。この節には王の「どうしても来てほしい」という切なる気持ちがよく表されています。
 にもかかわらず、人々はその王の招待を無視しました。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」て(5節)しまいます。「今は一日も休めない」と思ったのかもしれません。私たちも時々、神さまの招きに応えるよりも、自分の生活を優先します。神さまの招きはいつでも受けられると心のどこかで思っているからでしょう。あるいは、その招きがそれほど喜ばしいものだと、本当のところよくわかっていないのかもしれません。また、招待を受けた他の人々は、無視したどころか、「王の家来たちをとらえて乱暴し、殺してしまった」(6節)と言うのです。常識的に考えれば、そのようなことはあり得ないことです。しかし、そのありえないことがイエス・キリストの十字架において起こったのでした。王はその後、「怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払」いました(7節)。
 たとえ話は、まだ続きます。国王は家来たちに言いました。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」(8,9節)。つまり誰でもかまわず連れてきなさいと言うことです。町の通りには、いろいろな人が通ります。そこで王の招きがなされたということは、ユダヤ人に限られていた招きが、全ての人つまり異邦人にも及ぶということを象徴しています。善人と悪人の区別すらありません。「父は悪人にも善人にも  太陽を昇らせ」(マタイ5:45)という主イエスのみ言葉を思い起こします。ところが王が婚宴に来てみると、礼服を来ていない人が一人いました。「王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』」(12)と問い、側近の者たちに命じて彼を外につまみださせてしまいました。町の通りで集めた人ですから、「礼服を着て来い」と言うのは理不尽ですが、どうもそうではないようです。と申しますのは、当時の習慣によれば、お金持ちが人々を招待する時は、招いた相手に対して礼服まで用意したそうです。「王がわざわざ用意した礼服をどこかに放り投げてきたのか」と言うことがここで問われていたのです。当時の習慣を知れば、このたとえのこの箇所のことは、納得できるのではないでしょうか。
私たちはどうでしょう。神さまの御前に出るのに、私たちが自分で用意できるような礼服はありません。神さまご自身が私たちに用意してくださる礼服。それはイエス・キリストご自身であるということです。「礼服を着る」と言うことは、そうした最も基本的な信仰を持ってキリスト共に歩むことではないでしょうか。本物の天の国の宴会には、王子であるキリストご自身が私たちを招きに来られます。主イエスご自身が「招待状」であり、「礼服」なのです。
 私たちは、このたとえから二つの気づきが与えられるのではないでしょうか。
 第1は、神さまは、最初アブラハムを選び、イスラエルの民を神の民とされました。それが最初に招かれた人達です。ところが誠実に応えなかったため、その対象を広げ異邦人にまで広げてくださったということです。つまり、招待を断ったのは、ユダヤ人であって、王子(神さまの独り子)即ちイエス・キリストを受け入れたクリスチャン(異邦人)が招かれるようになったということです。しかし、主イエスはしばしば言われています。「後なる者が先になり、先なる者が後になる」(マタイ20:16)と。また、パウロも「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(ローマ11:12)と言っています。これらの点を心に留めて、謙虚に信仰生活を続けて行きたく思います
 第2は、神さまの招きは、私たちの想定をはるかに超えて、何処までも広がって行きます。天の国は「自分のようなものでよいのでしょうか」と思っている人々が集まっている所と言うことができます。婚宴の扉は今もすべての人に開かれているのです。また私たちは今も招かれ続けています。そのことに気づき、その招きに応える者でありたいと思います。    

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