「われらの贖いとなりたまえり」 ヘブライ9:11~22

「小羊の会」2023年6月8日

★法亢聖親牧師からのメッセージ

「我らの贖(あがな)いとなりたまえり」   ヘブライ9章11節~22節     

 贖いという言葉をキリスト教会ではよく使います。しかし一般的にはあまり使われませんので分かりにくい言葉の一つです。けれども「キリストの贖いによって救われた」という言葉は、とても大事な言葉です。
 口語辞典には、「贖う」として① 罪・汚れをまぬがれるために金品を出す。② 償(つぐな)いをする。罪滅ぼしをする。「犯した罪を贖う」と記されています。このような意味で、今日の日本でも使われることがあるようです。ただ私たちは普段、それほど悪いことはしていないと思っていますから、この言葉はめったに使いませんし、なにかに贖ってもらおうなどともめったに思わないのです。しかし、聖書には、この言葉が沢山出てきます。
 「キリストはご自身の血によって永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブライ9章11,12節)。
 このことは、聖書では、私たち人間を罪ある存在として見ていることになります。人間皆罪人、皆救われなくてはならない存在と見ているのです。これが徹底した、聖書の人間理解です。法律に触れるような罪は犯してないでしょう。しかし、前回の原罪のところで学びましたように、人間は自己中心で利己的です。そこからしばしば乱暴な言葉をはっして傷つつけてしまったり、心のなかで悪いことを考えてしまったり、人の悪口(陰口)を言いふらしたりして、小さな悪事を重ねています。これはすべて人間が神から離れ不従順になった結果です。こうした罪から先に述べたことや、もっと恐ろしい、法律に触れることや不道徳なことが生まれて来たのです。人類の歴史は、戦争の歴史とも言われます。戦争は、大義がありお互い聖なる戦争(聖戦)ということで始まるのです。お互い傷つき、お互い多大な犠牲者を生み出すのです。人間の義の限界がここにあります。
 このように限界のある弱いかけた存在、罪人は、当然聖なる・義なる神の裁きの対象なのです。裁くことがおできなるのは、ただお一人神さまだけです。その結果人間は、永遠の滅びに向かうしかないのです。この人間がそこから救われるにはどうしたらよいのでしょうか。神に金品を差し出したらよいのでしょうか。いいえ、金品以上のものを用意しなければなりません。それは、私たちの命です。
 命を差し出す。これこそ最高の責任の取り方です。これは私たちができないことです。その私たちのためにキリストが変わって命を差し出してくださったのです。そして私たちに罪の赦しをもたらし神との交わり、永遠の命を獲得してくださったのです。「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」とへブル人への手紙9章22節にある通りです。実に主イエス・キリストは、すすんで十字架にかかられ、ご自分の命という最高の代価によって私たちの罪のために完全に支払いをしてくださった、「贖い」となってくださったのです。

☆注 神のゆるしは、赦しといいます。人のゆるしは、許しと言います。  

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