「実を結ぶ種」 マタイによる福音書13:1~23

深谷教会聖霊降臨節第第2主日礼拝2023年6月4日
司会:西岡義治兄
聖書:マタイによる福音書13章1~23節
説教:「実を結ぶ種」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-195
奏楽:杉田裕恵姉

説教題 「実を結ぶ種」    マタイ13:1~23

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)
 マタイによる福音書13章には、沢山のたとえが記されています。主イエスは、たとえ話の達人です。羊飼いのたとえやぶどう園のたとえなど当時の人々にとって身近な事柄を自由自在に用いながら、いつも聞き手の心にピッタリと来るお話をされました。
 普通たとえは、事柄を分かりやすくするために用いられるのですが、反対に、分からないようにするために用いる場合もあります。例えば、ヨハネの黙示録のように、当時の権力者を伝説の動物などにたとえたりする場合です。つまり、分かる人には分かるように、暗号のように用いることもあります。「たとえ」はヘブライ語では「マーシャール」で、なぞなぞを解くと言いう意味もあります(箴言1:6)。
 10節以下での「たとえを用いて話す」理由は、そうしたことを考えれば合点がいきます。弟子たちが「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と質問された時、主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちはゆるされていないからである」と答えられました。
 さて、主イエスが、最初に語られたのは、種まきのたとえです。ある人が蒔いた4つの種の行方について語られています。
 第1の種は、道端に落ち、鳥が食べてしまいました。第2の種は、石だらけの地に落ち、すぐに芽を出しましたが、日が昇るとすぐに焼けて、根がないため枯れてしまいました。第3の種は茨の茂みに落ち、茨にふさがれてしまいました。第4の種は、良い地に落ち、30倍、60倍、100倍の実を結んだということです。
 この四種類の種とは、様々な形で蒔かれた「福音の種」のことで、その木は私たちの信仰生活のあり様を指し示しているように思います。主イエスは、18節以降でこのたとえの説明をされています。
 第1の種は、道端に落ちて鳥が来て食べてしまいました。道端と言うのは、人やロバなどに踏み固められ、硬くて根を張る余地がありません。ちょうど、心が硬くなっていて、せっかく福音を聞いても受け入れない人のことです。第1の種のような信仰生活をしている人について主イエスは、19節で「御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」と説明されました。
 第2の種は、石地に落ちた種です。石地に落ちた種は、すぐに発芽しますが、太陽が照り付けると焼けて、根がないため枯れてしまいました。熱しやすく冷めやすい人のことでありましょう。
 第3の種は、茨の中に落ちた種です。石地ではないので、芽を出し、根も張ります。しかし、茨に塞がれてしまうのです。茨とは、誘惑のことだと思います。様々な誘惑に負けてしまいます。「思い煩い」や「富の誘惑」と22節に記されています。「お金」は、お金持ちにとっても貧乏人にとっても、大きな誘惑です。信仰を持っていても、なかなかこの誘惑から自由になることができないのが実情です。ほかにも様々な誘惑があります。かつて私たちの若い時は、今のように若い人たちが楽しく集まるところがなかったせいか、教会に青年たちが多く集まり、楽しみながら自然と人生の意味や目標について語り合い人生の土台を築くことができました。しかし、今は、教会以外でも楽しい所がたくさんあり、また、家に居ながらタイムパフォーマンス(タイパ)で時間を有効に使うことができるようになってきています。オンライン(ZOOM)で講義を受け資格をとるということもでき、また交流ができるようになってきており、そうした環境の中で人生の意味や目標について考える機会が多くなっているのではないでしょうか。<こうした環境が整えられていることは、個々人にとっては良い事かもしれませんが、ただ一つ問題があると思います。それは、キリストの愛の教え、つまり、自立した人間となりコンパッション(思いやりの心)と社会貢献の自覚を持ち、互いに助け合い、共に成長し合いつつ、平和な世界をつくりだしていく志(信仰)を持つ機会から若い人たちが遠のく懸念があるからです。>この第2と第3は、実際深く関係していると思います。
 第4は、良い地に落ちた種です。これは23節の説明によりますと、「御言葉を聴いて悟る人」です。み言葉を悟るとは、どういうことでしょうか。
 み言葉を聞いて悟るとは、その言葉が命の言葉としてしっかりと宿ると言ことではないでしょうか。その人の内で生きる力、また支えとなり始めるということです。
 先輩牧師は、み言葉は、自分の生き方を変える「エポックメーキンする」力をもっていると言われました。今まで聞き過ごしていた、読み過ごしていた御言葉が、聖霊の働きによって悟ることができるようになるのです。ですから、聖霊の助けによって聞く耳が強められますように祈りましょう。また、私たちの内に蒔かれた種(御言葉)が聖霊によって生きる力、支えとなるよう祈りましょう。
 しかし、もともと良い土地をもっている人などいないのではないでしょうか。不可能を可能にしてくださる、主なる神が私たちの硬い心(頑なな心)を耕し、実を結ぶ土地に変えてくださるのでしたら可能となります。
 主イエスが十字架につけられた時には、本日のたとえをすぐそばで聞いていた弟子たちは一人残らず、主イエスのもとから去ってしまいました。せっかく蒔かれた種は、枯れてしまったと言えるかもしれません。
 主イエスはこの時、そうなることまで見抜いておられたのではないでしょうか。しかし、父なる神さまは、復活と言う人智では到底思いもよらない仕方で、死んだ種から芽を出させ、文字通り30倍、60倍、100倍、それ以上の実を結ばせられたのです。
 主イエスは、ヨハネ12章24節で、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われました。実に、弟子たちや私たちが実を結ぶ働きをすることができるのは、主イエスの命を懸けた働きがあったからなのです。

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