「整った食卓へと招く知恵」箴言から学ぶ 箴言9:1~12

「聖書の学びの会」2023年5月24日

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

「整った食卓へと招く知恵」 箴言から学ぶ 箴言9章1~12節 

「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。」(9:10口語訳)
「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。」(9:10新共同訳)
「知恵の基本は、主を恐れ、大切にすることです。物事がよくわかるようになりたければ、まず神を知りなさい。」(9:10リビングバイブル)
 箴言では、様々なものが対照的に描かれています。命と死、正義と不正、まっすぐな道と曲がった道など、対極のものを並置して、読者に選択を迫っています。
 9章では、特に知恵と愚かさが対置されています。この両者は、人に積極的に働きかけてくる存在として、擬人的に描かれています。1章では、知恵が広場や大通りで叫び、7章では、「よその女」が家から誘惑する様子が記されていましたが、この9章はそれらの締めくくり、集大成といえるでしょう。知恵と愚かな女が、それぞれ高いところから呼びかけるさまが、9章の前半と後半に記されています。知恵か、知恵以外か、どちらの呼びかけに聴くかが、読者に問われているのです。
 この知恵と愚かさは、ともに「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と語りかけます(4節、16節)。両者が、この「浅はかな者」を招き寄せるのは、彼がまだ十分に定まっていない存在だからです。浅はかな者は、確かにまだ、未熟な者ではありますが、同時に成熟する可能性も秘めた者でもあります。ですから、知恵と愚かさは、彼を自らのもとに引き寄せようとするのです。
 特に知恵の招待は、非常に行き届いたものです。知恵は、場所を設け、犠牲を払い、食事を準備し(2節)、使いまで遣わしています(3節)。しかも、そこまでして招かれた食卓の席は、決して堅苦しいものではありません。知恵は、パンとぶどう酒をふるまい、「生きなさい」と励ますのです(5,6節)。
 知恵のある生き方、「分別のある道」(6節)と聞きますと、正しくはあっても退屈な歩みを思い浮かべる方もいるかもしれません。けれども、知恵にしっかりと結びつくことは、全身でいのちの豊かさを味わうことにつながるのです。なぜなら、知恵は非常に創造的なものだからです。一つ前の8章では、知恵の性質と働きが多面的に描かれていますが、そこでは知恵が主の創造のみわざに深く関わっていたことが記されています。知恵はまさに、天地の建築士のような存在だったのです(8:30)。このように、知恵は創造の秩序と密接に結びついていますので、本当の意味で、人を育み、活気づけることができるのです。
 ただ、その知恵も、「嘲(あざけ)る者」とは距離を置くようにと教えています(7,8節)。なぜでしょうか。嘲る者は、ある意味で見込みのない者だからです。嘲る者は、叱責を聞かず(13:1)、知恵ある者に近づかず(15:12)、横柄で、不遜で、憤然としているからです(21:24参照)。彼の態度はすでに定まっており、成長の機会を自ら放棄しているのです。そんな嘲(あざけ)る者に関わり合うよりも、知恵ある者を叱り、正しい人を教えることを、箴言は勧めています。
 このような知恵の態度は、ある面厳しいものですが、向き合わなければいけない現実であります。チャンスは再現なくあるわけではありませんし、私たちも嘲る者となる可能性もあるからです。健全な恐れをもって、知恵の呼びかけに、喜んで応答する者でありたいものです。
 
〇 「真理は、自由を与える。」(ヨハネ8:32)

天の父なる神さま  
  私たちが、知恵の招きを受け入れ、知恵が提供するものを、存分に味わうことができますように。また、洞察を深めるために、知恵の叱責を喜んで受け入れることができますように。今日も導いて下さい。  み子の御名によって祈ります。 アーメン     

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