「空の墓」 マタイによる福音書28:1~10

深谷教会復活節第7主日礼拝2023年5月21日
司会:悦見 映兄
聖書:マタイによる福音書28章1~10節
説教:「空の墓」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-450
奏楽:野田周平兄

説教題 「空っぽの墓」  マタイによる福音書28章1~10節   法亢聖親牧師
 
 十字架上で息絶えられた主イエスのご遺体は、アリマタヤのヨセフの墓所の岩を掘った新しい墓に葬られました。安息日の始まる金曜日の夕刻が迫っていましたので没薬などでご遺体を拭き香油を塗る時間がなく亡骸(なきがら)はとりあえず綺麗な亜麻布に包まれ安置されました。アリマタヤのヨセフは、墓を大きな石でふさぎ、すぐに安息日を守るため立ち去りました。
 主イエスの支援者として責任を果たし、すぐに墓を後にしたアリマタヤのヨセフと対照的に、マグダラのマリアともう一人のマリアはそこに残り、墓の方を向いて座っていました(マタイ27:61)。それは呆然としていたと言うより愛する人のそばに少しでも長くいたいという気持ちの表れだと思います。そんな彼女らですから、二人のマリアは安息日が終わり、日曜日の夜明けを待ちわびるようにして、真っ先に主イエスのお墓へと駆けつけたのです。師である主イエスの亡骸を綺麗に拭き清め香油を塗るためです。
ところが、この二人のマリアが墓に到着すると不思議なことが続けて起こりました。
 突然地震が起こり、「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上にすわった」(28:2)のです。天使たちは軽々と墓をふさいでいた石を転がしたのです。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」(28:3)。それを目の当たりにした「番兵たちは、恐ろしさのあまり震えあがり、死人のようになって」(28:4)しまいました。
 婦人たちも、兵士ほどではありませんが脅えておりました。天使は、優しく脅えているマグダラのマリアともう一人のマリアにこう呼びかけたのです。「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』」(マタイ28:5,6)。
 婦人たちは、主イエスのご遺体を綺麗に拭き丁重に葬り、その上で主イエスのご遺体のそばにずーと留まりぽっかりと空いた心の穴を埋めようとやって来たのです。主イエスのご遺体にすがって思いっきり泣こうと思っていたのです。それなのに、当の主イエスのご遺体がなくなっていて、しかも天使から墓の中を確認するように言われました。
 墓の中を見ると主イエスの墓の中は、空っぽでした。彼女たちの落胆は計り知れぬものがあります。しかし、天使はこう告げたのです。「十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と。ここに福音があり、イースターのメッセージがあります。主イエスの空の墓は、主イエスの復活されたしるしであると言うことです。しかも7節にあるように「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あのお方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 婦人たちは、主イエスの復活を弟子たちに伝えると言うミッション・使命を与えられたのです。婦人たちやイエスの弟子たちにとって、ガリラヤとは生活の場であり、その生活の場で復活の主イエスがお会いしてくださるということを伝える使命が与えられたのです。復活され、今は天に昇られ、神さまの右に座しておられる復活の主イエス・キリストは、聖霊となられてこの世に降り、人類の歴史を導いておられるのです。復活の主は、今も聖霊となられ私たちの生活の場でお会いしてくださるのです。同時に、私たち一人一人の内に宿り共に歩んでくださるのです。主イエスの墓が空っぽであることを確認した婦人たちは、ガリラヤで復活された主イエスに会えると言う希望を頂いて、「恐れながらも大いに喜び」(28:8)急いで墓を立ち去りました。
 私たち人間は、とかく自分の生きている土台が不動のものであって揺らぐことのないという点で、いきなり神さまが介入されると、不安に襲われ震え上がってしまうのではないでしょうか。
 人間、死んだらお終りだ、死んだ人間は生きかえりっこない、神なんかいるもんかなどといっている人たちは、神さまが介入してこられると、墓を守っていた番兵たちのように恐ろしさのあまり死んだようになるのですが、私たち信仰者の世界は違います。私たちの人生に神さまが介入してくださることを知っているからです。確かに、突然神さまの介入があった時、私たちも同じように「畏れ(おそれ)」ますが神さまにすべてを委ね、神さまは最善を持って祈りに応え、私たちを導いてくださることを知っているから「恐れません」。
 さて、二人のマリアは、いわゆるお墓参りに行ったわけですが、今日どの国どの宗教の人もお墓参りをします、クリスチャンも例外ではありません。それでは私たちクリスチャンは何のためにお墓へ行くのでしょうか。供養し、亡くなられた人をなつかしみ、亡くなられた人に感謝をささげるためであるかもしれませんが、それだけではないのです。その方のお遺骨は、お墓の中にありますが、その方の霊はいつまでもお遺骨と共に眠っているわけではありません。イエス・キリストの墓、同様空っぽと言ってもよいかもしれません。
 使徒パウロもこう言っています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント15:20)。神さまを信じない人にとってお墓は人生の終着駅ですが、しかしイエス・キリストの復活の出来事は、人間の生と死を隔てる象徴であるお墓を超える力をお持ちなのだと伝えています。
 神さまを信じる者にとって、お墓は人生の終着駅ではなく一つの通過点に過ぎないのです。亡くなられた人(この世の生が終わった人)はお墓を通り過ぎて天国に迎え入れられ、天国で永遠の命ある者として目覚めるのです。「命在天」です。その意味でキリスト者にとってお墓は、天の御国を見上げる場所であり、天国の門です。そこで天国に先に行かれた方々と会話をすることができる場所です。そして、主イエスの復活を祝うイースターと聖霊降臨を祝うペンテコステのメッセージは、天国で憩っている方々の霊は、天国で復活の主と共に愛する遺族のためにとりなしておられることと、復活の主が聖霊となられこの世を守り導いくださっておられるように、私たちの先達方の霊もこの世に降り愛する私たちの心の中に宿ってくださることを伝えているのです。

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