「目を覚まして」 箴言6:6~19

「聖書の学びの会」2023年5月17日

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

「目を覚まして」     箴言から学ぶ 箴言6章6~19節                 
                
「なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目を覚まして起きるのか」(6:9口語訳)
「怠け者よ、いつまで寝ているのか。いつ目を覚まして起き上がるのか」(6:9新改訳)
「ところが、あなたがたは眠ってばかりいます。いったいいつ目を覚ますのですか。」(6:9リビングバイブル)

 目が覚めるようなみ言葉です。「怠けていてはいけない!」と姿勢をタダされます。ただ、一方ではこのみ言葉に重苦しさを感じる人もおられるかもしれません。「もうこれ以上求めないでください!」と反射的に思ってしまうのです。私たち日本人は、働きすぎる社会の中で生きていますから、そのように反応してしまうのも、無理もありません。
 有給休暇の習得率の低さ、正規雇用者の労働時間の長さ、睡眠時間の短さなど、労働環境の過酷さを示す指標において、日本は常に上位に位置しています。「過労死」を音訳した言葉“Karoshi”が、有名な英語辞書に登録されているようです。それほどまでに「かろう」は日本の代名詞となっています。
 そんな環境の中で、私たちは「この怠け者に関する箴言」を、どのように受け止めればよいのでしょうか。
 まず、覚えておかなければならないことは、この箇所は長時間労働を勧めているわけではないということです。むしろ、時をとらえることを求めています。8節では、蟻(あり)が刈り入れ時である夏に、食物を確保していることに注目しています。蟻(あり)でさえ「知恵」を働かせ、集める時を見極めているのです(30:25)。
 また、この箇所は、人にいいように使われることも、よしとしてはいません。7節では、かしらなく、つかさなく、王(支配者)もいないのに、蟻(あり)がふさわしい備えをしている事実が、取り上げられています。誰かの支持に従うばかりで、支持がなければ何もできないというのでは、いけないのです。そして、直前の1~5節でも、ある種の抜け目のなさが必要だと教えられています。箴言は、他者に対して、気前よく提供することを奨励していますが、ここでは安易に保証人になることを禁じています。また、保証人になったことで、窮地におちいったならば、必死になって、「自分を救い出す」ことが求められています。
 それでは、怠け者の何が問題なのでしょうか。それは、怠け者が行動を起こさないことよりも、怠け者の態度、姿勢です。怠け者は、人並みに欲を抱いているのですが(13:4)、適当な理由をつけて(22:13、26:13)、何も実行しないのです(26:15)。しかも、厄介なことに、そんな自分を知恵のある者だと思い込んでいるのです(26:16)。ですから、知者は「怠け者よ、・・・知恵を得よ」と呼びかけ、その生き方から脱却するようにと促すのです。
 さて、この6章が語っているような怠けない歩みは、私たちの日常生活において、また、教会生活において実践されているでしょうか。特に、互いの交わりを立ち上げ、周囲の人々を支えるという点において、時をとらえたわざをなしているでしょうか。イエスさまが言われるように、苦労はその日一日で十分でありますから、先のことを心配しすぎるのは考えものです(マタイ6:34参照)。
 しかし、他者と共に生きていくためには、やはり目を覚まさなくてはいけません(ローマ13:8~14、エペソ5:11~16)。蟻(あり)のように集めるべき時に、必要なものを確保できるように、知恵を祈り求めたいものです。

 祈り 
天の父なる神さま  
 わたしたちの目を覚ましてください。神さまと人に仕えるための勤勉さを与えてください。為すべきこととそうでないことを見分ける判断力を授けてください。また、安易な考え、邪悪な思いからもお守りください。
                     み子の御名によって祈ります。 アーメン     

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