「言葉の権威」 マタイによる福音書8:5~13

深田教会復活節第6主日礼拝2023年5月14日
司会;岡嵜燿子姉
聖書:マタイによる福音書8章5~13節
説教:「言葉の権威」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-58
奏楽:小野千恵子姉

説教題 「言葉の権威」        マタイによる福音書 8章5節~13節   法亢聖親牧師

 「すると百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)
 主イエスがカファルナウム(カぺナウム)の町に入られると、異邦人のローマの百人隊長が近づいて来て、「主よ、わたしの僕が中風(ちゅうぶ)で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」(6節)と主イエスに訴えました。ここはユダヤ人の町ですが、当時ユダヤの国はローマ皇帝によって支配されていましたから、この百人隊長は、ローマから派遣された兵隊の小隊長としてこの町に駐屯していたのです。
 一方宗教的には、ユダヤ人たちは自分たちの信仰に誇りを持ち、自分たちを武力で支配しているローマ人を異邦人として、具体的には異教徒として差別し、軽蔑して、その上早く出て行って欲しいと思っていたのです。そういう状況ですからローマ兵は、弱さを見せず、威圧的にしていなければならなかったことでしょう。ですから、弱さを見せるなどとんでもないことですが、しかし、この百人隊長は、部下の僕のために、一切のプライドを捨てて、主イエスの前に頭を下げたのです。
 そういう上官であったからからこそ、本日の聖書の箇所の9節で、本人が言っているように、彼の部下たちも彼を信頼して何でも言うことを聞いたのかもしれません。
 この百人隊長の優しさと謙虚な心に、主イエスは心を動かされ、「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)と言われたのだと思います。当時のユダヤ人たちは、「異邦人の家に入ると汚れる」と言って近づきませんでしたが、主イエスは異邦人の家でも徴税人の家でも赴(おもむ)かれたのです。主イエスは、本当に汚すものは、そういうことではないことをよく知っておられたからです。
 ところが百人隊長は、主イエスのせっかくの申し出を断りました。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下(した)にお迎えするようなものではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(8節)と言いました。
 この言葉には、信仰の本質にかかわる二つのことが語られています。一つは、「自分は主イエスをお迎えするにはふさわしくない人間である」と言うことです。自分にその資格があると思っているところでは、主イエスの力は発揮されません。心が弱く、貧しくなっているところに、主イエスの力は、十分に働くのです。使徒パウロが「神の力は弱い所に働く」(Ⅱコリント12:9)と言っている通りです。そして、もう一つ大事なことは、主イエスの力を信頼することです。主イエスの一言で「すべては解決する」と信じることです。パウロは、Ⅱコリント12:10節で次のように言っています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときこそ強いからです」と。これは、パウロ一流の信仰の逆説です。自分の力では、どうしようもなくなった時、我慢の限界に達した時、行き詰まった時、パウロやこの百人隊長のように主イエスに包み隠さずその苦しみ、悲しみ、不安を祈りの内に申し上げましょう。
 さて、百人隊長は次のようなことを言いました。「わたしも権威の下(もと)にあるものですが、わたしの下には兵隊がおり、ひとりに『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします」(9節)。彼が言おうとしたのは、「権威ある言葉には力がある。言われた通りになる」と言うことだと思います。百人隊長は次のように考えて、このようなことを言ったのだと思います。「自分は信仰のことはよくわからない異邦人だが、しかし、この世の権威のことなら、少しは知っている。権威の下では、言葉は裏切らない。必ず、実現する。人間の言葉がそうなのだから、まして神の権威を持っておられる方の言葉は、その通りになるはずだ」と。いずれにせよ、彼のこの論理は、主イエスへの信頼から生まれたものです。
 主イエスは、この男の言葉に感動して、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)と言われました。
 聖書とは、神さまの言葉が、力を持ち、必ずその言葉が実現することを証しする書物です。
 創世記のはじめからそうです。神さまが「光あれ」と言われると、光が現れその通りになった、と書かれています。旧約の預言者たちも神さまの言葉に権威と力があることを証しするために遣わされました。
 現代は、「言葉のインフレ」の時代と言われています。世界経済は、高いインフレ傾向にあります。2022年の世界の年間インフレ率は87パーセントで、日本は28パーセントでした。28パーセントと言えば、今まで100円のものが128円を出さなければ買えないということで、お金の値打ちがそれだけ下がってしまったということになります。
 「言葉のインフレ」と言うのは、それと同じことが言葉の世界でも起こっているということです。世界は、無数の出版物、インターネット、テレビ・ラジオなどによって言葉が氾濫しています。そのような中で、「言葉」は「情報」と同じように使い捨てになってしまい、はたしてどの言葉が有益で、信頼してよいかが分からない、言葉の価値、権威が失墜してしまいそうになっています。
 聖書は「真実な言葉」が存在すること、私たちをうらぎらない言葉が存在することを告げているのです。そして、この2000年の歴史がそれを証ししているのです。
 主イエスは、百人隊長に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(13節)と力ある言葉をかけられると、不思議なことに遠く離れたところにいる僕の病気はいやされました。主イエスの言葉通りになったのです。
 ここで注目したいことがあります。僕のいやしは、僕の信仰によってではなく、百人隊長の信仰によって引き起こされたということです。つまり、「執り成し」と言うことです。私たちが他の人の苦しみ、悩み、病気のために真剣に祈る時、その本人が信仰を持っていようといまいとにかかわりなく、主はその祈りを聞いてくださるのです。なんと、ありがたいことでしょう。ここに、慰めと希望があります。

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