「死を支配されるイエスさま」 マタイ9:18~26

「聖書の学びの会」2023年5月10日

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

「死を支配されるイエスさま」  マタイ9:18~26
                  
「『あちらに行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである』。すると人々はイエスをあざ笑った。しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起き上がった。」(マタイ9:24、25)

1 長血の女がイエスさまの衣に触る
 娘を亡くしたばかりの会堂司(管理者)が、娘をよみがえらせていただくために、イエスさまの前にひれ伏しました(18節)。この娘の奇跡の記事に挿入される形で、長血の女のいやしが記述されています(19~22節)。その理由は定かではありませんが、2つの記事の共通点は、どちらも女性の救いにかかわっているという点です。女性の信仰者も、男性と同様に神の国を継ぐ者であることを、ユダヤ人たちはイエスさまから学んだのです。
長血とは、子宮からの出血が止まらない病気ですが、ユダヤ人の間では汚れていると言われていました(レビ15:25)。12年は、長期にわたる病気の深刻さを表しています(20節)。イエスさまの着物に触れれば、きっと治ると考えた(21節)というのは、信仰と迷信が混ざった考え方です。たとえ、その女性が迷信的であっても、イエスさまは、その誠実さを受け入れ、「しっかりしなさい」と言われます。そして、「あなたの信仰があなたを救った(治した)のです」(22節)と、彼女の信仰を評価されました。

2 会堂司(管理者)の娘の生き返り
 笛の音は、死を連想させ、悲しみをかき立てました。騒いでいる群衆とは、泣き女たちのことで(23節)、悲しみを霧散させ、遺族の気持ちが晴れるようにしようとするためのものでしたが、これは逆効果でした。この世の悲しみは、キリストにある慰めが入る余地をなくします。ですからイエスさまは、笛吹や泣き女たち、悲しみを増大させる人たちを追い出されたのです。キリストの恵みの下においては、死はよみがえりの日までの眠りに
すぎません(24節)。キリストをあざ笑う者は、その奇跡を目撃するに値しませんから、イエスさまは群衆を外に出してから、少女の手を取られました。すると、少女は起き上がったのです(25節)キリストにあって眠った人々は、復活の朝には喜んで目覚めます。
 
キリストによっては、死は眠りと同じです。神の国における再会の希望を現実としてくださるイエスさまに、この世の悲しみを取り去っていただきましょう。

3 もはやいのちしかないのだ(マタイ8:25,26)
 あるアメリカ人のクリスチャン歌手が、夫と子どもを一度に亡くしました。その悲しみから、彼女は自殺も考えました。そして、来る日も来る日も海辺に行き、波を眺めていました。それが半年も続くので、周囲の人々は、とうとう気が変になってしまったと思ったほどです。ところが、海を見つめていたある日、突然、一つの確信が与えられます。「もはや命しかないのだ!」と。イエスさまは復活によって死に勝利されました。だから、私たちにとって、もはや死は消滅し、生ける命しか残されていません。そして彼女は、考えたのです。「自殺をすれば、2つの業者が儲かるだけだ(葬儀社と墓地の関連会社)。しかし、自分がここで生き延びれば、家族にとって良い影響があるだろう。教会でも良き働きができる。世の中の人々を明るくすることができる」。そして「もう一度衣装を着よう、もう一度ステージに上がろう、もう一度歌おう・・・」と、「もう一度」という思いに支えられるようになりました。自分のことではなく、人を支える方向へと、人生の目標を変えた時、彼女に生き続ける力が与えられたのです。これは、亡くなった者たちは「眠っているだけなのです」と言う確信があるからこそ、可能となる生き方です。イエスさまは、死の力を滅ぼしてくださいました。眠りは短い死、死は長い眠りなのです。それを知る私たちは、どんな苦難に遭っても、永遠のいのちの確信を持ち、この世の人々に希望を与える働きをさせていただきましょう。

〇 私たちは眠り続けるのではないのです。  第1コリント15:51

天の父なる神さま
 イエスさまの十字架の死と復活により、わたしたちも、喜びと感謝をもって神の国へ凱旋できます。復活の朝には、喜びをもって目覚めることを、楽しみにできますように。
   御子のみ名を通してお祈りいたします。  アーメン

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