「世を生かす命のパン」 ヨハネによる福音書6:30~51

深谷教会復活節第4主日礼拝2023年4月30日
司会:廣前成子姉
聖書:ヨハネによる福音書6章30~51節
説教:「世を生かす命のパン」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-453
奏楽:平石智子姉

説教題 「世を生かす命のパン」   (ヨハネ6章30節~51節)

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6:51)
 群衆は主イエスに、「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)と問いかけ、さらに「私たちの先祖は、荒れ野でマナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(31節)と付け加えました。
 主イエスが5000人を超える人々にパンを与える奇跡を起こされたのに、彼らは、本当の信仰には至っていなかったのです。つまり、彼らは、5000人の給食の奇跡よりもっと大きなしるし(奇跡)を見せてくれるように、また、主イエスが本当に神さまから遣わされたメシアなのか、もっと確かな証拠を見せてほしいと願っているのです。
 どんな不思議な出来事(しるし・奇跡)も、「主イエス・キリストが神さまから遣わされたお方」であることを信ずる信仰に結び付くとは限りません。
 見ることと見抜くこととは違います。あるいは ,見ることと見分けることとは違うということです。見てはいても見分ける(見抜く)ことができないのです。主イエスは、預言者イザヤの言葉を借りて「あなた方は聴くには聴くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:9)と言われました。
 私たちも、時々不思議な出来事を経験します。その時に、ある人はそれを単なる偶然と見ますが、ある人はそこに何らかの神さまの働きを見ます。
神さまから遣わされたメシアのしるし(証拠)を見せてほしいという人々に対して、イエスさまはこう答えられました。「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではない。わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(32、33節)
 これを聞いた群衆は、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(34節)と言いました。群衆は、主イエスが伝えようとした意味を自分勝手に、つまり表面的に受け止めて、「そんなありがたいパンがあるのなら、ぜひほしい」と思ったのです。
 ヨハネによる福音書には、主イエスの言葉を表面的にとらえて「とんちんかんな問答」が展開されている箇所がたくさん記されています。
 福音書記者ヨハネは、本日の聖書の箇所でもそうですが、現在の読者である私たちが主イエス・キリストが伝えようとしている深い意味や隠されている秘儀に気づくように、主イエスと“とんちんかんな群衆”との会話を繰り返し伝えるのです。そうした「とんちんかんな問答」を繰り返しながら主イエスは、より深い事柄、隠された意味について導いてくださるのです。
 本日の問答もそうです。彼らには実際に食べるパンのことしか頭にはありませんでしたが、主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)と語られました。この「わたしが命である」と言うこの表現は、ヨハネ福音書の独特の表現です。「わたしは何々である」と言うギリシャ語で「エゴー・エイミ」と言う表現で、「啓示」や「メシア的」定式と言われるものです。これは、旧約聖書の出エジプト記3章14節で主なる神さまが、モーセの質問に答えて「わたしは、ある者である」と言われたことに由来しています。
 ヨハネ福音書でこの「エゴ―・エイミ」が使われているところは次の通りです。まず、井戸端でのサマリアの女との対話で「あなたと話しているこのわたしが、それである」(4:26)。本日の聖句「命のパンである」(6:35)、以降6ヶ所でこの定式が出てきます。
 イエス・キリストは、このようにしてご自分が誰であるかをお示しになられたのです。その一つひとつがイエス・キリストの様々な側面を言い表しているのです。このことによって私たちは、イエス・キリストが誰であるのかを知ることができるのです。
 主イエスは、本日の群衆との対話で、父なる神さまとご自分との関係を明らかにしようとされるのですが、なかなか伝わらず、かえって群衆の心はだんだんと離れて行きます。
 主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われるのを聞いて、彼らはつぶやき始めました(41節)。彼らの態度は、4章の「サマリアの女」と対比的です。「サマリアの女」も最初は、とんちんかんな答えを主イエスにしていましたが、話をしているうちに変わって行きます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(4:19)、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」(4:25)。そのサマリアの女に対して主イエスは、「あなたと話しているこのわたしが、それである」と答えられたのです。と言うように、スカル(シカル)の女は、主イエスを救い主(メシア)と信じるに至ったのです。
 ところが本日の箇所では、同じように始まりながら、だんだんとイエス・キリストを拒絶する方向へと言ってしまうのです。
主イエスは、「わたしが与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」(51節)、「わたしたちの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32,33節)と言われました。
 主イエス・キリストこそ、この世の命の源である。それによって神さまはこの世界を支えておられるのです。この世界を表面的にだけ見るならば分からないのですが、聖書の言葉を、主イエスの言葉を通してこの世を見ると真理を見抜くことができるようになるのです。
 主イエスが語られた「与える」と言う言葉には、「分け与える」と言う意味と共に、「死に引渡す」と言う意味が含まれています。イエス・キリストは、パンを分け与えられるように、ご自分の命を与えられました。イエス・キリストの十字架の死、それこそがこのパンに込められたもう一つの意味なのです。

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