「神さまが与えてくださる平和4」 ルカによる福音書24;36~49

深谷教会復活節第3主日礼拝2023年4月23日
司会:斎藤綾子姉
聖書:ルカによる福音書24章36~49節
説教:「神さまが与えてくださる平和」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-358
奏楽:野田治三郎兄

説教題 「神さまが与えてくださる平和」   (ルカ24章36節~49節)    法亢聖親牧師

 本日の聖書の箇所をルカ福音書記者ルカは、イエスさまの弟子たちが集まっているところに、復活されたイエスさまが現れたということを歴史的な事実として書こうとしたのではないのです。自分もその中にいて経験した礼拝そのものを書こうとして書いているのです。つまり、ここは礼拝の場面です。イエスさまは、弟子たちの真ん中に立たれ「あなたがたに平和があるように」(24:36)と言われました。このことは、今も礼拝で起こることです。このイエスさまの声が聞こえることが重要なのです。
 イエスさまの十字架の死と復活、そして逃げ去った弟子たちへの顕現を通してつくり出してくださったことは、神さまと私たち罪人との間の平和です。御子イエス・キリストの十字架の死と復活の命がなければ、そして十字架の上でイエスさまが「罪人の罪を赦してください」と祈ってくださらなければ、神さまに背いて生きるほかにない罪人と神さまとの間に平和はないのです。私たちが神さまの方を向き、神さまに向かって歩むことなどできません。
 私たちが神さまの方に向くことができる、それはイエス・キリストの十字架によって私たちの罪が神さまによって赦されたからです。そのことを、復活の主イエス・キリストが明らかにしてくださったのです。これが、礼拝におけるイエスさまが語れる「あなたがたに平和があるように」の意味です。
 イエスさまの臨在される礼拝の中で、私たちはイエスさまに出会うことができるのです。
 「イエスはこう言われた。『わたしについてのモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの『心の目』を開いて、言われた。次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24:44~48)。
 律法と預言者とは、旧約聖書のことで、この旧約聖書に書いてあることは、イエスさまが地上にいらしたころ弟子たちに語ったことなのです。旧約聖書が預言しているメシア(救世主)は、必ず苦しみを経験し、その苦しみが死に行き着くこと、それも人間の罪の結果である死に行き着くことを語られたのです。それは、みな神さまの救いのご計画で、イエスさまは、そのご計画に従われ、そうすることによって律法と預言者のメシア預言の成就者となられたのです。旧約とは、「モーセを通して神の民イスラエルに与えられた律法を守る者は救われる」というもので、新約とは、神さまと新しいイスラエル即ちキリスト教徒との間に交わされた新しい契約、「律法とメシア預言の成就者イエス・キリストを信じ受け入れる者は皆救われる」というものです。つまり、全人類の罪咎<十字架>を負い、その十字架で流された血潮によって全人類を贖い、死を打ち破り復活され、永遠の命の授与者となられたイエス・キリストを救い主と信じ受け入れる者は、誰でも救われるというものが新約なのです。
「そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの『心の目』を開いて(24:45)、言われた。『次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24:47,48)
 私たちの主イエス・キリストは、本日の弟子たちのように自分たちの弱さ(限界)を知り、礼拝をささげている時に、出会って下さり、シャローム(平安・平和)と語りかけ、私たちの祈りに応え、神さまとの平和による罪の赦しと言う平安、即ち真の救いを与えてくださるのです。それでは、礼拝や祈りを通して与えられる「シャローム」真の救いとは、どのようなものなのでしょうか。その恵みを解くカギが「罪の赦しと悔い改め」(24:47)というフレーズにあります。
 聖書の罪とは、罪=悪ではありません。神さまに背を向けて、全てを自分のもの、自分の思いのままにふるまうことが罪です。私の家、私の命、私の神・・・。また、私の考え、私の思い・・。私たちは何でも自分のものにしてしまい、自分の思い通りに自分勝手に生きようとします。そういう意味で、私たちは、皆罪人です。この世では、それが当たり前のことだからです。聖書が用いている罪と言う言葉は、「ハマルケア(的を外す)」と言う言葉です。つまり、神さまの御顔を見ないで、神さまに背を向けて生きることが罪で、神さまに背を向けて生きている人を罪人と言うのです。
その罪人の生き方を改めさせるのが、悔い改めです。イエスさまの先駆者である洗礼者ヨハネは、「罪の赦しを得させるための洗礼を宣べ伝え」(3:3)ましたし、イエスさまも「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)とおっしゃっていました。つまり、悔い改めとは、方向転換のことであり、自分のためだけに生きていた人間が、神さまの方向を向いて神さまと隣人のために生きる者となるということです。こうした意味から、新しくされる、新たに生きる者となるということができるのです。それは、決断、決心とは全く違います。「その名によって」(24:47)もたらされるものなのです。即ち、「あなた方の身代わりに十字架で神さまの裁きを受け、私たちが神さまに向かって生きるために復活され、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったイエスさまとの出会いによって与えられるものなのです。
 イエスさまは、今朝の聖書の箇所を通して、次ように告げられます。「わたしは、あなたの罪を背負い、あなたの代わりに完全に罰せられ、復活させられてあなたと共に生きている。今、あなたはそのことを信じた。これまでの自分を脱ぎ捨てて洗礼を受けた。だからあなたは、新しく造られた。あなたは、これからわたしと共に神に向かって生きるのだ」と。主は、この礼拝を通して出会ってくださり、癒し、贖い、強めてくださり、主が共にいてくださるという信仰の目を開き、神さまの御栄光を表すことのできる新しい一週間の歩みへと派遣してくださるのです。また、復活の主の証し人として生きて行きたく思います。

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