「目に見えないけれど」 ルカによる福音書24:13~35

深谷教会受難節第2主日礼拝2023年4月26日
司会:悦見 映兄
聖書:ルカによる福音書24章13~35節
説教:「目に見えないけれど」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-405
奏楽:野田周平兄

説教題 「目に見えないけれど」   (ルカ24章13節~35節)   法亢聖親牧師

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24:30,31)
 先週の日曜日私たちは、イースターを迎え、礼拝をささげ、復活の主を心の内に迎えるしるしとして命のみ言葉と聖餐の恵みにあずかり、心新たにいいスタートを切りました。
 本日の聖書の箇所に登場している二人の弟子たちは、どうだったのでしょうか。ルカ福音書記者のルカは「ちょうどこの日」と記しています(24:13)。イエスさまが復活された日のことです。
 エマオ途上の二人、ひとりはクレオパという名前で、もうひとりの名は記されていません。この二人は、一説によると夫婦だったと言われています。哲学者のアリストテレスは、弟子に教える時、学校の庭を散策しながら講義したと言われています。歩きながら考えるというのは、結構いいアイデアが生まれるような気がします。と言うより、議論をするのも肩を並べて歩きますから、向き合ってするより、同じ方向を向いているので、お互い余裕もあり、冷静に客観的に相手の意見や考えを受け止めることができるのではないでしょうか。(古代ギリシアの自然の中を散策して哲学するアリストテレスが開いた学校は、逍遥学派と呼ばれています。)
 この二人も、歩きながら議論をしています。「この一切の出来事について話し合っていた。」(24:14)。夫婦であれ、友人であれ、仕事仲間であれ、こうして真剣に話し合えること(語り合えること)のできることは素晴らしいことです。ひょっとすると人生の豊かさは、こうしたところにあるのではないでしょうか。誰かと互いに心から語り合える。また、相談し合える者を持っているか。心から聴くことのできる耳を持っているか。ルカ福音書を書いた医者であり、神学者でもあったルカは、この二人に託して、キリストの体なる教会のあるべき姿を隠喩(メタファー)として書き記したのかもしれません。教会は、常に歩み続けています。二人いれば教会です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。ルカは、互いに主イエスと言うお方をめぐって、語り合い祈りあっている、ただそれが、教会の原点であることを伝えようとしているのだと思います。
 ただし、この二人の表情は暗いのです。「二人は、暗い顔をして立ち止まった」(24:17)。教会は、ここから歩み出すのです。
 この二人の道連れが、「教会」を表している隠喩であることの証拠が28節以降に記されています。夕刻、エマオに着きクレオパの家に到着すると、二人は復活の主であるイエスさまを引き留めました。「一緒にお泊りください」(24:29)と。つまり、主イエスは「ここにきてください」との祈りに応えてくださるのです。今、私たちがささげているこの礼拝にも来てくださるのです。
 三人で共に夕べの食卓に着くと、イエスさまがホストとなって、パンを裂き、その一切れづつを二人(一人ひとり)に分かち与えてくださるのです。これは初代教会の礼拝の様子を、そのままに映し出しているのだと思います。礼拝は夕刻に行われていました。信者は、家の教会に集まり、持ち寄りの食事を食卓に並べ、分かち合って食べる。それが礼拝であったのです。はじめに自分の家を教会(コイノニア)として提供している主人、あるいは、教会の世話人がパンを取りこれを裂き(主イエスの十字架の想起)、そして食卓に集まっている一人ひとりに手渡したのです。「パン裂き(聖餐)」と呼ばれ、これこそが礼拝の中心だったのです。当時の礼拝は、食べ、飲み、讃美し、み言葉を語り、聴き、祈り、最後に「主よ、ここにお出でください(マラナ・タ)」と皆で唱和して礼拝を閉じたのです。こうした当時の教会のあり様を、ルカはエマオの物語の中で、物語(ストリー)として再現したのだと思います。
 さて、本日の聖書の箇所で特に注目したいのは、31節の「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と言うところです。何か矛盾したことを語っているように思えます。次のように読み解くことができるのではないでしょうか。「二人の目が開かれ、主は確かにおられることが分かった、すると目に見えるかどうかは、問題ではなくなった」と。このことをルカは一番伝えたかったのだと思います。なぜなら、ルカ福音書が聖典として読まれる頃には、ユダヤ人キリスト者だけでなく異邦人キリスト者も多くいたからです。特に、ルカ福音書は異邦人キリスト者に向けて書かれた福音書です。ですから、復活の主に直接出会った人たちより、復活されて天に上げられ、目には見えませんが聖霊となられて働かれておられるイエスさまを信ずる信者の方が多くなっていたのです。「復活の主を見た、よみがえりの主が現れた」と、主イエスのご在世中共に歩んだ弟子たちは口々に証言しました。しかし、問題は、見たからどうか、ではなく、今、よみがえりの主が共におられて、生きて働かれているという事実そのものだということであって、見えるか見えないかは根本的な問題ではないということです。
 「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づき、一緒に歩み出された。しかし、二人の目はさえぎられて、イエスだとは分からなかった」。確かに、目に見える姿でイエスさまだと分からないまでも、復活の主が近づき、一緒に歩み出してくださる。教会も、一人ひとりの人生もそう言うものだと思います。私たちの希望はここにあります。
 「イエスご自身が近づき、歩み始められる」、このみ言葉があるから、今日の歩みを、また一歩一歩、歩むことができるのではないでしょうか。   「主よ、来てくださり、今週も共に歩んでください。」
 サン=テグジュュベリが「星の王子さま」の中で「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」と言っています。目には見えないけれど、つまり、肉の目には見えませんが、霊の目・信仰の目を研ぎ澄ませて主イエスを見上げ、主と共に、主のみ声に聴き従って皆様と共に歩んで行きたく思います。

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