深谷教会棕梠の主日礼拝2023年4月2日
司会:渡辺清美姉
聖書:マタイによる福音書27章27~44節
説教:「キリストは降りて来られない」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-303,300
奏楽:杉田裕恵姉
説教題 「キリストは降りて来られない」 (マタイ27章27節~44節)
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」(マタイ27:42)
イエス・キリストは、ピラトの裁判の後、兵士たちに引き渡されました。ロバの子に乗ってエルサレムに入城されたイエスさまを棕櫚(しゅろ)の葉を敷いて出迎えた(マタイ21:8,9)群衆は、祭司長たちの扇動によって「イエスを十字架につけよ」と叫んだのです(27:22,23)。この兵士たちも群衆と同種類の人々です。兵士たちは、自分の意志で動くのではなく、上官の命令で動きます。自分できちんと物事を考えようとしないで、責任も取ろうとしません。ある意味で無邪気です。しかし、群衆よりも恐ろしいことに、兵士たちは武器を持っているということです。
ここでの兵士たちは、戯(たわむ)れています(27:27~29)。王様が着る赤のマント風の外套を着せ、茨で編んだ冠をかぶらせて、戯れで跪(ひざまず)いています。恐ろしい倒錯した世界です。しかし、ここで行われていることがどんなに戯画化(ぎがか)されたことであり、耐え難い事であっても、この中に真実な何かが含まれています。それは、「ここに立っておられる方こそ、まことの王である」と言うことです。
ゴルゴタと呼ばれる丘に着くと兵士たちは、イエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました。本来、ぶどう酒は、十字架の痛みを和らげるために与えられるものでしたが、それに苦いものを混ぜられていたということは、イエスさまをからかうためでした。兵士たちはイエスさまの着ているものを取り合いました。神さまの子が十字架に架けられ、死んでいくその瞬間に、十字架のもとでは戯れたことが行われているのです。
十字架の上には、「ユダヤ人の王と言う看板が掲げられています。ここにあざけりがあります。本当は、そう思ってもいないからです。しかし、この看板もまた、これを掲げた人々のあざけりを超えて、不思議にも真実を指し示しています。
通りすがりの人も、イエスさまを侮辱しました。「神殿を倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)。次は、祭司長、律法学者、長老たちです。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(27:42)。そして、最後には主イエス・キリストと共に十字架につけられている強盗までもが、イエスさまを罵ったと記されています(27:44)。主イエス・キリストは十字架の上で想像を絶する痛みに絶えられたばかりではなく、徹底的な侮辱とののしり、あざけりにも絶え抜いて、息を引き取られたのです。
1988年に上映された「最後の誘惑」と言う映画が話題になりました。と言うよりスキャンダラスな場面が沢山あり、聖書とはかけはなれたところがある映画で、論議を呼びました。でも、テーマはとても興味深いものです。あらすじは、こうです。
“イエスさまは、十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいます。意識がもうろうとしていく中、群衆の叫びも遠のいていきます。その時、十字架の下に一人の少女が現れ、こう言いました。「私は天使です。あなたは十分苦しみました。もう苦しむ必要はありません」。そして、釘(くぎ)を一本ずつ抜いていき、イエスさまの足の釘あとにキスをしました。
その後、天使に導かれてゴルゴタの丘を降りると、マグダラのマリアが花嫁として待っています。イエスさまは彼女と結婚をして、子どもも与えられます。しかし、彼女に先立たれ、今度はマルタの妹のマリアと再婚し、幸せに年老いていきました。その間、例の天使はずっと傍らにいるのです。イエスさまはついに死の床で「自分の人生はしあわせであった」と述懐(じゅっかい)します。ところが、そこへかつての弟子たちが次々に現われ、そのうちの一人が「こんなところで何をしているのです。あれは天使ではなく。悪魔です」と叫びます。イエスさまは、はっと我に返り、死の床から十字架へと帰ってゆくのです。場面は、十字架上に戻ります。群衆が罵っています。イエス・キリストは穏やかな笑みを浮かべながら、「すべては成し遂げられた」と言って、息を引き取るのです。“
このストーリーは、何を意味しているのでしょうか。それは、イエス・キリストが十字架から降りたら、もはやキリストではなかった、私とは何の関係もなかったということです。この映画の天使に化けた悪魔の「最後の誘惑」は、イエスさまをキリストではなく、ただの人間にしてしまうことにあったのでした。
イエスさまは、バプテスマを受け、公生涯に入られた直後、聖霊に導かれ荒野で悪魔の誘惑を受けられました(マタイ4:1~11)。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(マタイ4:6)と誘惑した悪魔が、最後にもう一度、「神の子なら十字架から降りたらどうだ」と誘惑してきたというストーリです。確かに、イエスさまは、全き神の子ですから、十字架から降りることはできたでしょう。しかし、イエスさまは十字架から降りて見せることによってではなく、十字架に留まり続け、陰府(よみ)にまで降ることによって(Ⅰペトロ3:19)、まことの救い主であることをお示しになられたのです。
さて、兵士たちに侮辱された後、ゴルゴタの丘に行くまでの道のりで小さな出来事が起こりました。「兵士たちは出て行くと、シモンと言うキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」(27:32)。シモンは、運悪くたまたまそこに居合わせたために、とんでもないことになりました。イエスさまの代わりに十字架を担がされ、イエスさまと共に辱(はずかし)めを受けることになったのです。
私たちも突然、とんでもない重荷を負わされることがあります。また、いわれのない辱めを受けることがあります。それは、イエス・キリストの負われた不当な重荷、苦しみ、辱めのほんの一端を、共に負うことであるかもしれません。ゴルゴタの丘に着き、イエス・キリストに十字架が戻された時、シモンの肩から十字架がおろされました。私たちの負う重荷と辱めも、一時のことにすぎないのです。やがてイエスさまがそれを私たちの肩からおろし、ご自身が代わって負ってくださるのです(マタイ11:28~30)。