「わたしの愛する子」 ルカによる福音書9:28~45

深谷教会受難節(レント)第4主日礼拝2023年3月19日
司会:蜂巣恵子姉
聖書:ルカによる福音書9章28~45節
説教:「わたしの愛する子」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-358、432
奏楽:野田周平兄

 説教題 「わたしの愛する子」  (ルカ9章28節~45節)                            

 「この話をしてから八日」(9:28)とは、イエスさまが話された「死と復活の予告をされた」日から八日と言うことです。八日とは、週の初め日曜日のことだと思います。キリスト教会では、イエス・キリストが復活された日曜日に礼拝をささげることになっています。
 神さまが復活させたイエスさまは、ご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちと会われ、彼らに神さまとの間に「平和があるように」(ルカ24:36)と言われました。つまり、「あなたがたと神さまを分断していた罪が赦された。わたしが神さまの裁きを受けたことによって、あなたがたは神に向かって歩めるようになったのだ。あなたがたと神さまとの間に平和が築かれた」と言われたのです。この平和は、イエスさまの十字架の死と復活によってのみ築かれるのです。ご自分が十字架にかかり復活させられたという意味で、イエスさまと他の者たち(人間)と見た目は同じでも、本質はまるで違うのです。イエスさまは、「神さまから遣わされたキリスト」だからです。
 イエスさまは、祈るため山に登られる時、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を連れていきました。山の中で祈られているイエスさまの「服が真っ白に輝いた」(9:29)のです。そこに旧約聖書を代表するモーセとエリヤが「栄光に包まれて現われ、イエスがエルサレムで遂げられる最期について話していた」(9:31)のです。それは、十字架の死のことです。罪びとである人間が悔い改めて、神さまに向かって生きるために、罪のないイエスさまが罪びと、それも犯罪者として処刑されなければならない。それは、イエスさまにとって大変なことでした。だが、その意味は、弟子たちには分からなかったのです。
 ペトロは、イエスさまの光輝く変貌の姿を見てモーセ、エリヤ、イエスさまのために三つの小屋を建てましょうと言いました。ペトロは、自分が何を言っているか分からなかったのです(9:33)。少なくとも彼の心の中には、この三人(イエスさま、モーセ、エリヤ)を自分の元に留めておきたかったのでしょう。私たち人間は、イエスさまのことを自分勝手に理解し、普段の生活と別世界に閉じ込め一独り占めしようとするところがあります。ペトロの言葉には、そういう思いが込められているように見えます。
 その時雲が彼らを包みました。雲は、神さまのご臨在のしるしです。その雲の中から声がしました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)、マタイでは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)と記されています。「その声がした時、イエスだけがおられた」(9:36)。
 三人の弟子たちは、自分たちが見たこと、聞いたことは誰にも話さずに沈黙しました。イエスさまの姿も、エルサレムで遂げることになる最期も、神さまの声も、そしてペトロの言葉も、何を意味するのか彼らには分かりませんでした。
 山に登ったら必ずくだる時が来ます。日曜日に教会で礼拝をささげれば、月曜日には職場や家庭などで日常の生活が始まるのと同じです。山の下には、ほかの弟子たちがおり、悪霊にとりつかれると突然叫び出し、泡を吹きだす一人息子の癒しを願う人がいました。その人は、イエスさまの弟子たちに、悪霊追放と癒しを頼んだのですが、彼らにはできませんでした。イエスさまは、その現実をご覧になられ「なんと信仰のない。よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなた方と共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(9:41)と言われました。この「あなたがた」は癒しを行えなかった弟子たちを指すのでしょうか。それとも、息子の癒しを願ってやってくる親たちなのでしょうか。いずれにしても、癒しが何を意味しているのかを理解していないという点で、両者は共通していると思います。イエスさまは、その両者を含めて、「あなたがた」とおっしゃったのです。「我慢しなければならないのか」(9:41)は、受け入れるという意味です。癒しとは、神さまは誰一人としてお見捨てにはならないという 福音の表れであることを、イエスさまは少なくとも弟子たちに理解してほしかったのではないでしょうか。
 神さまが一人ひとりを愛しておられることは、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」(9:43)という言葉から明らかです。神さまは、イエスさまを通して働かれます。そして、弟子たちを通して、神さまの愛が現れていくことを願っておられます。しかし、まだ「その時」は来ていません。イエスさまは、弟子たちに、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(9:44)と言われました。でも、弟子たちには、この言葉の意味が分かりませんでした。恐ろしくてその言葉の意味を尋ねることもできませんでした。ここでは、引き渡される相手は祭司長たちではなく、「人々」と記されています。ルカ福音書の後の箇所では、「異邦人」(18:32)と書かれています。イエスさまは、すべての人から排斥され、十字架の裁きを受け、そのことのゆえに復活させられ、すべての人に罪の赦しを与える救い主(キリスト)となられたのです。ヨハネ福音書が言う「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となられたのです。そのことのためにイエスさまは、地上に遣わされ、山の上で祈りつつ、エルサレムでの最後の時に向かって歩まれるのです。悪霊追放も癒しも、そのことのためにあります。弟子たちも、当時の誰もがイエスさまのご在世中はそのことが分かりませんでした。しかし、聖霊降臨の後から、イエスさまが誰であるかを知らされていくのです。そして、十字架の死の時「あの人のことは知らない」と言って逃げ去った弟子たちが、復活された主イエスの霊・聖霊を受けてエルサレムから全世界へと遣わされました。この派遣は、今も続いています。私たちがこの礼拝によって聖霊を受け、日々の生活の場に遣わされていくのです。神さまの愛する子イエスキリストのみ声に聴き従いながら。

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