「私たちの信仰を守るものは」 ルカによる福音書11:14~28

深谷教会受難節(レント)第2主日礼拝2023年3月5日
司会:野田治三郎兄
聖書:ルカによる福音書11章14~28節
説教:「私たちの信仰を守るものは」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-57、113
奏楽:杉田裕恵姉

 説教題 「私たちの信仰を守るのは」    ルカ11章14節~28節                            
 「むしろ、幸せなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11章28節)
 私たちは、信仰者として生きています。しかし、私たちは、信仰者として生きていますが、一方この世を生きています。イエスさまが伝えようとしていることの、この世的な解釈と信仰的な解釈が違うことがしばしばあり、この世の流れと摩擦を起こすことがあります。
 本日のみ言葉を通して、イエスさまが私たちに伝えようとされておられる真理を聴いてまいりましょう。
 イエスさまが、口を利(き)けなくする悪霊に憑かれて苦しんでいる人から悪霊を追い出しておられました。そして、多くの人が「口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆しました(14)が。「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」(15,16)のです。
 イエスさまを救い主と信じようとしない人々は、15、16節のような自分勝手なとんでもない受け止め方をするものです。イエスさまが本当に神の子でメシアであるかどうか「天からのしるし」を求めた人々は、ともかく、イエスさまが口の利けない人を口が利けるようにされたのは、神さまのお力・聖霊によるのにも関わらず、こともあろうに、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言って悪口を言う人々がいたのです。イエスさまの時代は、魔術師や祈祷師のような人が、人から病魔を追い出し、悪霊に憑かれている人の悪霊を追い出していたようです。
 イエスさまは、悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出していると言っている人々に対して、「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れる。サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか」(11:17、18)とおっしゃり、その上で、イエスさまは、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(11:20)と続けておっしゃいました。イエスさまが神さまの指で悪霊を追放しているということは、神の国が到来したと言う現実を表していると言うことです。イエスさまは、神の国、即ち、神さまのご支配の中に人々を招き入れるために、神さまの指・聖霊を使って人々をいやし、悪霊に憑かれている人々から悪霊を追い出されておられたのです。
 本日の聖書の箇所が伝えようとしていることは、イエスさまが私たちに与えてくださる救いは、病気のいやしとか悪霊を追い出してくださるというこの世における一過性のものではなく、その人の魂の救い、永遠の命を生きる者に変えてくださるという救いです。
イエスさまは、こう続けます。「もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を全て奪いとり、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者は、わたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(11:22,23)とおっしゃいました。
家の財産は、強い者がいれば守られます。しかし、どんなに強い者であっても、「もっと強い者が襲って来てこの人に勝」てば、ひとたまりもありません。
 しかし、何が「強さ」を表し、何が守るべき「分捕り品」なのでしょうか。この世における「強さ」とは、地位や身分、腕力などです。そして、「分捕り品」とは土地やお金などの財産と言ったところでしょうか。だがしかし、イエスさまは、悪霊追放の後、つまり救いに導いた後で、この世のそういうことを言い出されるお方ではありません。そもそも、イエスさまはこの世の知恵(適当な地位を得て何不自由なく生きていく知恵)をお語りになられる方ではありません。では、イエスさまは、何をお語りになっているのでしょうか。
 使徒パウロは、かつては、サウロと呼ばれ、キリスト教の迫害者でした。しかし、復活されたイエスさまに出会い、洗礼を受け、生まれ変わり、キリスト教の使徒に変えられた人物です。そのパウロが「・・わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では、他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私は自分にとって有利なものすべてを失いましたが、それらを塵芥(ちりあくた)と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。・・わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中から復活に達したいのです。」(フィリピ3:5~11)。と言った彼は、キリスト教の使徒として働くこととなったのです。だがその生涯は、まさに苦しみの連続でしたが、主の御栄光のため苦しむことも幸いだというのです。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピ3:12)と。
 パウロが言う「キリスト・イエスに捕らえられているからです」とは、キリストに愛されている、赦されている、キリストは今も私と共に生きてくださっている。その事実は変わらない、ということだと思います。そして、その事実を信じる。そこに神の国に生きる事実があるのです。
 私たちの分捕り品は、信仰です。でも、その信仰は、守られて初めて守ることができるのです。私たちの信仰を守るのは。この上なく強いイエスさまの愛と赦しです。この愛と赦しのおかげで、私たちの信仰は今日も守られ、神さまとの間を分断している罪を赦され、神の国に生きることができるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活の命を通してご自身を示された神さまに出会い、その神さまに愛されている。赦されていることを信じ受け入れる時、私たちは今日も神の国に生きることができるのです。
 信仰に生きることは、様々な摩擦を受けながらこの世を生きることですから、とても一人では信仰を守り続けることはできないのです。キリスト者は、共に礼拝を守り、励まし合い、祈り合って行か(主の体なる教会が)なければ信仰を生き抜くことはできないのです。
 また、イエスさまは、肉のつながりではなく(11:27)、霊において神さまとつながり、神さまの言葉を聴き、その時感動するだけでなく、生涯示されたみ言葉を守って生きていくことこそ、「幸(さいわい)」だとおっしゃっておられます(11:28)。

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