「ヘブライ語の「愛」から学ぶ エゼキエル書16:1~14

深谷教会受難節(レント)第1主日礼拝2023年2月26日
司会:斎藤綾子姉
聖書:エゼキエル書16章1~14節
説教:「ヘブライ語の「愛」から学ぶ」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-475、480
奏楽:野田治三郎兄

          説教題 「ヘブライ語の『愛』から学ぶ」     (エゼキエル16章1節~14節)
           副題 「かかわりの深さによってことばが変わるヘブライ語の『愛』」  
                               
 「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。わたしは、野の若草のようにお前を栄えさせた。」(エゼキエル16:6,7;新共同訳)

 本日の聖書の箇所に記されているエゼキエルの預言から旧約聖書の「愛」、つまり、イスラエルの民が「愛」をどのように理解していたかを、旧約聖書の原語であるヘブライ語の「愛」という概念から学んでみたいと思います。
 旧約聖書の中で「愛」を表現する言葉の代表は、「へセッド」です。日本語では、「慈しみ」、「あわれみ」あるいは、「誠実」と訳すことができる言葉です。「慈しみ」という言葉は、とてもきれいな響きのある言葉です。
 旧約聖書には、「慈しみ」、「あわれみ」や「誠実」を意味することばに「ヘーン」という言葉があります。この言葉と「へセッド」を比較してみると、「慈しみ」という言葉の意味を掘り下げて知ることができます。両方とも「親切」「あわれみ」「寛容」を表す言葉ですが、「へセッド」には、二人の当事者の間に絆があり、「ヘーン」には、そうした絆がないのです。「絆(きずな)がある、なし」に違いがあるわけです。そして、「ヘーン」は、優れた者、力のある者から弱者に向けられた関係で使われ、「へセッド」は、無差別に使われるというものではなく、絆があるところで使われるのです。
 ヘブライ語で書かれている旧約聖書は、愛を関係において区別して使い分けているのです。へブライ語の愛は、この2つの言葉「ヘセッド」と「ヘーン」では終わりません。もう一つの愛を示す言葉があります。「ツェダカー」です。日本語の聖書では、「正義」とか「義」と訳されている言葉です。この言葉の内的な意味は、誓いに基づいた誠実さということです。雇用契約を例に挙げると分かりやすいと思います。皆さまが、雇い主と月給30万円を受けとるという条件で契約を交わしたとします。その時から、朝9時から夕方の5時までの皆様の労働は、義務となり、その時間は雇い主の権利になります。雇い主は、30万円の報酬を皆様に与えることを約束したので、皆さまは、30万円を受け取る権利があるのです。契約(誓い)に基づいた相手への行為を、ヘブライ語では、「ツェダカー」と言います。神さまの前で誓う結婚式(夫婦の愛)も「ツェダカー」です。「ツェダカー」の語源は、「まっすぐな、しっかりとした」という意味の言葉なのです。しっかりと自分の義務、相手の権利を認めて行動する、そこに「ツェダカー」という言葉の基本的意味があります。
 さて、ここまでヘブライ語の愛を表す3つの言葉について説明をしてきました。「ヘーン」「ヘセッド」「ツェダカー」には、かかわりの確かさ、密度の濃さがあることに気づかれたのではないでしょうか。「ヘーン」には、前もってのかかわりはありません。「ヘセッド」には、積み重ねてきたかかわりがあります。しかし、友情には、二人の自由な意思によるものである限り、必ずしも、絶対確かなものとは言えません。ただし、友情も親友(心友)のように、自由意思による誓いによって自分の権利を放棄し、相手に譲与する時、つまり、なんでも相談できる関係という絶対化がおこるのです。この誓いに基づいて相手とかかわることが、ヘブライ語では、「ツェダカー」と表現します。
相手の姿に目を留め「ヘーン」すなわち相手に手を差し伸べます。そこにかかわりが始まります。そのかかわりを重ねてゆくことによって友情「ヘセッド」がはぐくまれ、やがて、友情が深まり、誓いを交わします。それが「ツェダカー」です。「ヘーン」から「ツェダカー」へと高まっていくかかわり、これが旧約聖書の時代の愛の最高の理想であったようです。
 ここでかかわりの前提になるものとして、「選び」が重要であると聖書は、記しています。「へーン」にしろ「ツェダカー」にしろ、その前提になる心の動きは「選び」です。相手と関係を持とうかよそうかという選びがあります。この人に心を開こうかどうしようかという選びがあります。この「選び」をヘブライ語では、「アハバー」と言います。選んだ相手に情熱をもってかかわっていくことを「アハバー」というのです。かかわりが、「アハバー」から始まり、「ヘーン」「ヘセッド」「ツェダカー」へと発展してゆく様子を見事に表現しているのが、本日の聖書の箇所エゼキエル書の16章です。
 預言者エゼキエルは、神さまとイスラエルの民とのかかわりを、生まれた日にへその緒を切る者もなく道端に置き去りにされた赤ん坊に目を留め、手を差し伸べていく旅人の例で説明をしています。目を留めるところから始まり、最後に、誓いという形で完成されていくかかわりがそこにあります。新約、旧約の約とは、契約の約です。それは、人間と神さまとの間に結ぶ契約のことです。神さまが、人間に求めるかかわりは、誓いにあります。神さまが、人間に示される愛も、この誓いに基づくものだからです。私たちキリスト者は、神さまによって選ばれた者として、キリストの犠牲の血潮によって贖(あがな)われ、清められたものとして、「ツェダカー」の愛、救いの契約の中に入れられた者として生きることが求められているのです。神との関係、教会の兄弟姉妹方との関係を「ヘーン」から「ツェダカー」の関係へと深めていきたく思います。
 「わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしが選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それはあなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、また、あなた方がわたしの名によって父に求めるものは何でも、父が与えてくださるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。」(ヨハネ15:15~17;口語訳)

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