深谷教会降誕節第9主日礼拝2023年2月19日
司会:渡辺清美姉
聖書:エフェソ人への手紙1章3~10節
説教:「人は生まれる前から愛されている」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-487、479
奏楽:高橋ひかり姉
説教題 「人は、生まれる前から愛されている」 (エフェソ1章3節~10節)
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1章:4、5節)
愛という言葉は、人と人との関わりにおいて使われているように思います。母性愛、父性愛、兄弟愛、師弟愛、博愛、恋愛、友愛・・・など。そこに共通していることは、人と人との関わりは、愛ということです。「愛」という漢字をよく見てみると「受ける」という字の中に「心」という字があります。愛とは、相手を受け入れる、あるいは、受けとめるという字であることが分かります。つまり、「相手を受け止めて心がいっぱいになる」という言葉です。
恋愛をされた時のことを思い出してください。寝ても覚めてもいつも自分の中に相手が入ってきてしまい、自分の心を動かしてしまう経験がおありかと思います。母親の心の中に入って母親の行動を動かしてしまう子供の姿も同じです。
さて、現実の私たちの心の状態は、どうでしょうか。自分のこと、自分の楽しみ、自分の家のことだけでいっぱいになっているのではないでしょうか。
自分の仕事、自分の健康、自分の楽しみに動かされている人の心には、先のカテゴリーに当てはめますと、愛があるとは、言えないような気がします。あえて愛という言葉を使うなら利己愛ということになります。ルカによる福音書の良きサマリア人のたとえ(ルカ10章25節~37節)の中に出てくる祭司や神殿に仕えていたレビ人たちの心は、おそらく自分のことで、特に自分の職務のことでいっぱいであったことと思います。自分の中に何かこだわっているものなどがあると目の前で誰かが倒れていても、助けを求めていても、それに気づかず、心で受け止め、相手のニードに応えていくことは難しいのです。
「自分しか見えない人がいる。家族のことが見える人がいる。家族のことしか見えない人がいる。国のことが見える人がいる。国のことしか見えない人がいる。世界のことが見える人がいる。世界のことしか見えない人がいる。神が見える人がいる。神のことしか見えない人がいる。神の中ですべてが見える人がいる。」この言葉は、とても示唆にとんだ言葉だと思います。
神の愛の中に入れられると、神の愛の心に満たされて、つまり神の子であるキリストのように考え、キリストのように見、キリストのように人々に関わっていくものに変えられていくのです。マザーテレサのように、宗教や、グループ、国のエゴイズムという枠を越えて、「神の中で、人間一人一人の営みにやわらかに心を開いて生きていけるようになるのではないでしょうか」。マザーテレサは、考えられないほどの人々を心の中に受けとって生きた人です。このマザーテレサや、日本でも活動している「テレサの愛の奉仕女修道会」に連なるシスターたちの心はなんと広いことでしょう。それに比べ自分の考えで生きてしまっている自分の心はなんと狭いことかと、恥ずかしくなります。
それでは、どうしたらマザーのような人になれるのでしょうか。私たちが努力をすればなれるものではないと思います。私たちが父なる神さまから子として愛されていることに気づく時、私たちは、利己愛から解放されて人を受け止め、人を愛することができる人間に変えられるのです。
聖書の示す、「神の愛」とは、先に述べました漢字の愛の説明からひも解くことができます。「神が私たち一人ひとりを受け止めて下さっていること、そして受け止めてくださっている私たち一人ひとりによって神さまのみ心が動かされているということ」になります。神さまは、罪ある人間のみじめな姿を見て見ぬふりはできず、思わず、私たちの方に手をさしのべて、私たち一人ひとりに駆け寄ってしまわれるのです。そこに神の愛があります。
私たちは、人を愛することがなかなかできない、すなわち、自分を傷つつけ、ばかにし、無視するような人を許すことができないのです。また、私たちは、平気で人を傷つけ、裏切り、うそをついてしまうのです。純粋で義の心をいただいて生まれて来たのに、今ではすっかり汚れてしまった心で生きている私たちのもとに、神さまは、キリストとして聖霊となられて訪れてくださるのです。自分などは汚い存在だ、救われるにふさわしくない存在だ、と自分に嫌気をさし苦しんでいる私たちを見て見ぬふりをすることができないお方だからです。
罪に汚れてしまっている私たちは、聖なる神の前に出られるような存在ではない、と言われる方も多くおられます。確かにそうかもしれませんが、そうした人間の姿を見て見ぬふりができないところに神の愛の特徴があります。人間は神の似姿をいただいて生まれてきているのです(創世記1章27節)。神は私たちをこの世にお遣わしくださる前から、創造以前からご自身の聖性を与えて下さっておられるのです。エフェソの信徒への手紙1章3節~10節でパウロが言うように、世の創造の前から私たちは選ばれ愛されていたなどとは、おかしいといぶかられるかもしれません。しかし、芸術家のことを考えてみてください。彼らも、絵画や造形物を創作する人々です。
ミケランジェロの作品を思い浮かべてください。彼の傑作の一つに「ピエタ」があります。磔(はりつけ)にされたあと、十字架から降ろされたイエスさまを膝に抱えて悲しむマリアの像です。ミケランジェロは、この像を完成させるまで、何度も満足が行かず作成を放棄したそうです。その放棄したものが数多くあったそうです。それは、彼の中にすでに誕生していた「原像」があるからです。作品が具体的に誕生する前に、作品は作者の中に受け止められていたということ、言い換えると「愛されていた」ということになります。これと同じで、私たち一人ひとりは、皆例外なく、創造される以前から、神の中で大事にされ、大事にされていたからこそ、存在を与えられたということができるのです。
ですから、神さまは、罪と汚(けが)れで、汚(よご)れている、私たちの似姿を光り輝かせるために、私たちの罪と汚れをキリストの十字架の血潮によって洗い清め光輝かせてくださるのです。この父なる神さまのゆるしのもとに生かされていることを、愛の内に受け入れられていることを深く覚えたいものです。
讃美歌21に「生まれる前から 神さまに 愛されてきた ともだちの誕生日です、おめでとう」(21・547番)と言う歌があります。この讃美歌は、もともと子供讃美歌80番から讃美歌21に採用されたものです。この歌詞を深く思い浮かべて、自分が父なる神さまにとってどのような存在であるかを思い返したく思います。