「神の家族として生きるために」 ルカによる福音書8:1~21

深谷教会降誕節第7主日礼拝2023年2月5日
司会:悦見 映兄
聖書:ルカによる福音書8章1~21節
説教:「神の家族として生きるために」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-227、390
奏楽:杉田裕恵姉

            説教題 「神の家族として生きるために」    (ルカ8:1~21)       
 
 今朝の聖書の箇所は、少し長いので三つに区分してお伝えしたいと思います。「神の国」(1~10節)、「神の言葉」(11,21)そして「聞く」(8,10・・21)です。

 「神の国」
 イエスさまの時代は、男女が家の外で話をすること自体なかなかゆるされることではない社会でした。しかし、イエスさまの周りには女性が大勢いました。そのことだけでも、革新的でした。イエスさまの周りには、女性も男性も平等にいるということが「神の国」であるということです。また、女性の中には、当時の階級、階層の違う人々がいました。マグダラのマリアと「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」がいました。当時、一緒にいることのできない二人が、イエスさまの一行のために奉仕しているのです。
 イエスさまの愛は、女性たちがそれまで経験したことのない分け隔てのない愛でした。神さまの被造物である人間として接する愛でした。その愛で包まれつつ、彼女たちは自分自身と出会っていきました。それまで経験したことのない喜びがあり喜んで、イエスさまに仕えたのです。その人間として主なるイエスさまから愛されているという喜びが「神の国」にはあるのです。 

 「神の言葉」
 イエスさまは、ここで「種まく人」のたとえを語れておられます(8:4~8)。そして弟子たちは「神の国の秘密を悟ることが赦されている」(10節)と言われます。だが、イエスさまのたとえは秘密を悟ることができると言われている弟子たちですら分からない、「聞いても理解できない」(10節)言葉です。では、イエスさまの言葉を弟子たちは悟ることが赦されているとはどういうことなのでしょうか。実際の所、イエスさまの弟子たちがイエスさまの言葉を真に受け止め、世界中の人々に宣べ伝えていくためには、聖霊降臨を待たねばなりませんでした。つまり、イエスさまの言葉は、イエスさまのたとえを含めて、聖霊が働く時、命の言葉としてその人の内で働くのです。
 このイエスさまの「種まく人」のたとえは、私たちの人生の変遷のたとえのように思います。種まく人は、もちろん神さまで、種は、命のみ言葉です。そして、様々な地とは、私たちの心だというように読むことができると思います。イエスさまの言葉を固定的にとらえるのではなく、イエスさまの言葉が、本当であること、そしてその言葉が実を結ぶ言葉であることは、今は分からないかもしれませんが、私たちが「善い心で御言葉を聞き、良く守り、忍耐して」(15節)いくことで、やがてイエスさまの言葉が実を結ぶことを経験することがあるからです。イエスさまの言葉は、私たちの人生の中で変化し、私たち心を成長させ、多くの実を結ばせる良い地に変えてくださるのです。イエスさまが蒔いて下さった神の言葉を聞いて、受け入れ、生きているのが、私たちキリスト者です。

 「ともし火のたとえ」
 「ともし火のたとえ」は、神さまの言葉を受け入れたら、その言葉を生かして具体的に生きることが大切であることを伝えています。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(8:18)のです。

 「神の家族」
 19節以下では、おそらくイエスさまは家の中におられたのでしょう。そこに母や兄弟たちがやって来たのです。ヨセフ家の長男を連れ返すためにやってきたと記されています 「神さまの言葉」を単なる「神さまの教え」として、つまり知識として学ぼうとする限り、私たちはいつまでたってもイエスさまを「自分の救い主」として信じることはできないのです。それは、イエスさまの言葉を人の言説ととらえているからイエスさまの言葉を理解することも生きる力にすることもできないのです。イエスさまの肉の家族は、この時はまだイエスさまのことを自分の子、自分たちの兄として理解したままでした。ですから、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(21節)と言われたのです。エスさまを救い主と信じ、イエスさまの言葉を神さまの言葉として受け入れる時、イエスさまの言葉が私たちを神さまの子として生かす言葉となるのです。そして、神さまの言葉を聞いて行う者こそ、即ち、イエスさまの母、兄弟、神の家族なのです。
 イエスさまの後にガリラヤから従って来た女性たちは、イエスさまが十字架で死なれ墓に葬られた後、彼女たちは安息日が終わるのを待って、夜明けに、イエスさまの遺体に香料を持って塗りに行ったのです。そこに、二人の天使が、彼女たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思いだしなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:5~7)と告げました。
 この天使たちの言葉を聞いた女性たちの中にマグダラのマリアとヨハナがいました(ルカ24:10)。彼女たちが知らされたことは、一体何だったのでしょうか。
 それは、罪人(神さまを信じない者)を赦す、死に至るまで父なる神さまを信じ続けられた、即ち、罪を犯すことがなかった御子イエス・キリストを十字架につけて裁くことによって罪びとを赦す神の愛です。そして、その神さまの愛の成就者イエス・キリストを信じ受け入れる時、私たちの不信仰の罪が赦され、神の子として生きることができるのです。自分たちは、このように神さまから愛されていることを信じて生きる。イエスさまを迎え入れる信仰に生きる時に、イエスさまが聖霊となられ宿り、私たちの中で働いて下さるのです。この命に生きるところに神の国が現れます。神の言葉を聞いて行うということは、こういうことです。その意味で、私たちの深谷教会もイエスさまの兄弟姉妹、神の家族が集う神の家なのです。神の国が現れてくるように私たち一人一人が聖霊の助けをいただき、神さまの言葉を聞き、行い、神さまの家族の絆を深めて行くことができますように、神の家族の輪をこの深谷の地に広げて行くことができますようにと祈り求めていきたく思います。

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