「人生を神さまにささげて生きる」 ルカによる福音書21:1~6

深谷教会降誕節第6主日礼拝2023年1月29日
司会:野田治三郎兄
聖書:ルカによる福音書21章1~6節
説教:「人生を神さまにささげて生きる」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-521、522
奏楽:野田周平兄

(以下の配信は最初に3分、説教中に8分中断します)

             説教題 「人生を神さまにささげて生きる」  (ルカ21:1~6) 
      
 今朝の聖書の箇所の舞台になっている賽銭箱が置いてある場所は、エルサレム神殿の境内です。イエスさまは、神殿の境内に座り「金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた」(21:1)とあります。そして、「ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て」(21:2)こう言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからだ。」(ルカ21:3、4)
 「確かに言っておく」とは、「これから言うことは確かである」と言う意味です。ギリシア語の「確か」は「真理」ということばと語源が一緒です。つまり、世の中を行きかっている言葉は、表面的な言葉に過ぎず、確かなものではない。そこに真理などないということを伝えようとされたのだと思います。それではなぜ、私たちの言葉が、確かな言葉でなくなってしまうのでしょう。それは、私たちが目に見えることを追い求めているからです。
 イエスさまのお言葉によれば、私たちは気づかないうちに「有り余る中から献金」(21:4)をしているというのです。5節に、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」とあるように、私たちは見えるものに目を奪われ、行動が左右されがちです。自分の献金が神殿の石垣になった、私があの奉納物を捧げた、などと言って人に見せたがり、誇ろうとします。しかし、イエスさまの価値観は全く違います。「このやもめは貧しく、誰よりも賽銭をたくさん入れた。乏しい中から生活費を全て入れたからだ」とイエスさまはおっしゃるのです。ここで使われている「貧しい」とは、ギリシア語の「プトーケー」で経済的貧しさを表します。この人の場合は、単に貧しいというのではなく極貧です。生活費を全て賽銭箱に入れるほどの貧しさです。
 ルカ福音書で貧しいというイエスさまの最初の言葉が記されているのは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4:18)です(イザヤ61:1,2の引用)。
 ここでの「貧しい人」とは主に望みをかける者のことです。主にしか望みえない人のことです。日本も格差が広がりつつありますが、イエスさまの時代は、今の日本の比ではありませんでした。ほとんどの人たちがユダヤ社会の底辺の貧しい暮らしを強いられ生きる希望なき人々だったのです。しかし、預言者イザヤもイエスさまも、貧しい人が福音を告げ知らされる、と言うのです。「福音」とは、良い知らせのことです。神さまは、貧しい人々を見捨てておられない、神さまはすべての人を愛しておられ、全ての人が神さまの愛を信じて生きることを願っているという知らせのことです。
 本日の聖書の箇所のやもめは、この福音を聴き、受け入れたのです。イエスさまのお言葉の「生活費」と言う言葉(ビオス)は、「人生」と言う意味もあります。この意味から、このやもめは、イエスさまの福音に自分の人生のすべてをかけたのです。イエスさまにとってはそこが問題なのです。イエスさまが、この女性は「誰よりもたくさん入れた」と言われましたが、「たくさん」は額ではありません。そこに自分の人生をかけているかどうかが問題なのです。「献金」が「献身」になっているかが問題なのです。金持ちたちの多くは、「額」が問題なのです。しかし、この貧しいやもめがささげた献金は自分の人生です。自分の人生を捧げているのです。自分で生きるのではなく、神さまに生かされる人生にかけている。そのことによってしか、神さまの福音はわからないのです。私たちは、イエスさまの死と復活の恵み(犠牲的愛)を信じ、永遠の命を受け神の子に生まれ変わらせていただくことによってはじめて、「自己中心の我」、「富、中心の我」から、「神の愛中心の我」に、イエスさまに従って生きる者に、変えられていくのです。キリストの命には、自分の命、神さまの愛には、愛で応えていくしかないのです。ですから、イエスさまは、山上の説教の中で「心の貧しい者は、幸いです」と言われたのです。なぜなら、貧しい者は、福音を聴くことができるからです。献金は、献身のしるしと言う所以がここにあるのです。
 「あなたがたは、これらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(21:6)。
 当時のエルサレム神殿の側面は、厚い金でおおわれ、太陽の光を反射していたようです。ある人たちが、そういう側面が光輝く神殿の見事さを話しているのを聞いて、イエスさまは、言われたのです。この箇所の「あなた方」は、イエスさまの後に従っている弟子たちのことだと思います。イエスさまは、この時弟子たちもご自分と同じ価値観とものの見方をもってほしいとお思いになられ、このようなことを語られたのだと思います。
 世界中の人が平和を願っているのですが、現実は違っています。人類の歴史はある意味戦争の歴史です。日本は、木の文化ですから、東京大空襲の後のように焼け野原となりますが、石の文化の地では、徹底的な破壊がなされ、その上に新たな町が建てられることになります。イスラエルがそうです。現在の町の下にかつての町があるのです。
 目に見えるものは、それがどんなに豪華なものであってもなくなるものです。それは建物のようなものに限りません。制度も秩序などもそうです。今はそれが当たり前のことであっても、五十年後、百年後には変わっています。
 イエスさまは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(21:33)とおっしゃいました。目に見えるものはなくなるということです。
 私たちは目に見えるものの中に永遠があると錯覚し、見とれてしまいがちです(21:6)。しかし、イエスさまに従う弟子である私たちキリスト者は、目に見えるものに価値観を置くのではなく、イエスさまを救い主と信じて、キリストのように考え、キリストのように生きて行きたく思います。私たちの全財産を、即ち自分の人生を主に委ねて主に従って生きて行きたく思います。
 神さまは、私たち罪人(不信仰な者)を愛するがゆえに、キリスト・イエスの血潮によって赦し、神さまの子(永遠のいのちを生きる者)としてくださいましたから、その神さまの愛に応えて、神の子(神の御国の世継ぎ)とされた人生を、神さまの愛におささげして生きて行きたく思います。

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