「からし種とパン種」のたとえ マタイによる福音書13:31~35

深谷教会降誕節第5主日礼拝2023年1月22日
司会:蜂巣恵子姉
聖書:マタイによる福音書13章31~35節
説教:「からし種とパン種」のたとえ
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-358、412
奏楽:野田治三郎兄

           説教題 「からし種」と「パン種」のたとえ         (マタイ13:31~35)       
 
 イエスさまは、13章で立て続けに7つの天国についてのたとえを語られました。また、マタイ福音書は、イエスさまの別のたとえを18章、20章、22章、25章でも記しています。なぜイエスさまは、このように天国のたとえを何度も繰り返しお語りになられたのでしょうか。それは、この世には、天国全体を表すものは存在しないからです。ですからイエスさまは、さまざまなたとえを用いながら、天の国のいろいろな側面についてお教えになられたのです。ちょうどジグソーパズルのようにイエスさまの天国のたとえの一つをワンピースとし、それらをひとつに組み合わせて行きますと天国のイメージがはっきりと浮かびあがってくるのです。
 さて、本日の「からし種」と「パン種」のたとえが伝えている天国の真理についてみてみましょう。まずは、「からし種」のたとえです。
 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどになる」(31,32節)。このたとえは、イエス・キリストの働きのことを指し示しているのだと思います。イエスさまが2000年前になさったことは、ユダヤ・パレスナ地方の一角で起こった小さな出来事でしたが、その後世界全体の歩みにかかわる大きなものになりました。讃美歌21の412番に「昔主イエスの 蒔きたまいし、いとも小さき いのちの種。芽生え育ちて 地の果てまで、 その枝を張る 樹とはなりぬ」とあるように、イエスさまが2000年前に蒔かれた「福音の種」つまり「イエスさまをキリストと信じ受け入れる者は皆救われる」という福音は、時代を超えて全世界に伝えられているのです。
 その私たちの心に蒔かれた「福音の種・いのち種」は、一見小さな種に見えますが、そこには大きな力が秘められています。神さまのご支配も、始まりは非常に小さいものですが、それはとてつもなく大きくなっていくのです。始めは小さな群れであったイエスさまの弟子たちが福音を受け継ぎ、主の体なる教会を建て、そして聖霊降臨を受けた弟子たちとキリスト者となった人々が世界中に宣べ伝え、教会を建てて行ったのです。まことのからし種(いのちの種・み言葉)は、私たちキリスト者の証しの生活を持続させる力となるのです。しかし、自分の力で福音を宣べ伝え、証しの生活をしていくのではなく、聖霊となられ働かれるイエスさまが私たちの内にやどり、私たちのからし種のような小さな信仰を実り豊かなもとしてくださるのです。イエスさまを救い主として心に受け入れた時、もうすでに神の国(天国)即ち、神さまのご支配の内に入れられ、私たちはこの世を歩んでいることを覚えたいものです。
 次に、「パン種」のたとえを見てみましょう。
 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(33節)。「パン種」も「からし種」と同様、小さなものでありますが、からし種の方は、種が地に蒔かれて、種そのものが大きな木になるのです。パン種の方は自分が大きくなるのではなく、粉に混じって、パンを大きく膨らませるのです。
 三サトンとは、約40リットルですから、100人分のパンができるそうです。このように大量の粉であっても、ほんの少しパン種が入れば、パンを膨らませることができるのです。どんなに非力でも主が共に働いてくださるならば、からし種の信仰同様、主が力をお与えくださいますから主の証人のわざ(神さまの子としての働き)をすることができるのです。
 イエスさまがパン種のたとえを語れたのには、もう一つの理由があります。イエスさまの当時のユダヤでは、パン種はほとんどの場合、悪い意味で使われていました。それは、モーセの時代以来(出エジプト記12:15)、不潔なものとして語り継がれ、聖なるものからは取り除かれてきました。イエスさまご自身も、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に気をつけなさい」(マタイ16:6)と言われました。また、パウロも「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種を奇麗に取り除きなさい。現に、あなた方はパン種の入っていない者なのです。」(Ⅰコリント5:6,7)と言っています。これは明らかに悪い意味で使われています。不純物です。それが少しでも入ると全体に大きな影響を及ぼしてしまうということです。パウロが活躍していた当時のユダヤの人々は、そういう考えの中に生きていましたから、当時のユダヤの人々は、パン種を入れないパンを食べていました。
 そうだとすれば、ここでイエスさまが「天の国はパン種のようなものである」と語られたことは、特別な意味が込められているのだと思います。つまり、誰もが神さまにふさわしくないと思って捨てているもの、避けているもの、そこに天の国の萌芽が隠されている。そのようなところから、天の国は始まっているということが暗示されているのではないでしょうか。当時不純物であると考えられていたパン種(イースト菌)を、つまり異邦人や神さまをまだ信じていない人々を主は清めてお用いくださり、世を変えていく即ち天のみ国を建設する働き人に変えてくださることを示唆しているように思うのです。
 「ポテンシャル」と言う言葉をよく聞きます。それは、潜在的な能力を指す言葉です。私たちは本日、「からし種」と「パン種」のたとえを学び、神さまの御国、天の国を建てていく働き人として立てられていることを学びました。しかし、私たちはそのことを時々受け入れることができなくなります。病気になったり、物事がうまく進んで行かない現実に出くわすからです。「ああ、私は弱く、本当に小さな者だ」と思わされることが何度もあります。でも失望しないでいでください。イエスさまは、そのような欠け多き私たちを愛の眼差しでみておられ、「私が与えるいのちの霊によって生命力あふれる存在なのだ」というように、礼拝をささげ、祈りをささげるごとに、私たちのポテンシャルを引き出し高めくだくださるのです(Ⅱコリント12:9)。

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