「一歩を踏み出す」 マタイによる福音書4:18~25

深谷教会降誕節第4主日礼拝2023年1月15日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:マタイによる福音書4章18~25節
説教:「一歩を踏み出す」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-456、458
奏楽:平石智子姉

              説教題 「一歩を踏み出す」   (マタイ4:18~25)       

 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:19、20)
 人生には大切な「時」というものがあります。それは、計画的に迎えることもありますが、むしろ私たちの人生に、突然飛び込んでくることのほうが多いのではないでしょうか。人生をそれまでと、それ以降を分けてしまうほどの重みをもった決定的な「時・カイロス」です。それは、しばしばありふれた平凡な日常生活の中に起こるのです。
 シモン・ペテロとアンデレが主イエスに呼びかけられた瞬間も、そういう「時」であったと思います。彼らはガリラヤ湖で網を打っていました。彼らにとって、そこは何も特別な場所ではなく、彼らの職場です。毎日その場にやって来て、生きていくために必要なお金を稼ぐために、漁をしていたのです。その日もいつものように仕事場に来ていたのです。ペテロとアンデレの兄弟にとって日常の生活の場に、イエスさまが向こうから近づいてこられ、この二人に声をおかけになりました。この瞬間、彼らにとってありふれた日常生活の場が特別な場となったのです。
 また、この瞬間、彼らの人生は変わったのです。イエスさまとの出会いは、その人の生き方や生きるクヲリィティ(質)を変えるのです。
 イエスさまは、二人に呼びかけられます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と。すると「二人はすぐに網を捨てて従った」(20節)とあります。彼らがどうしてこんなにすぐに従うことができたのかいろいろ考えることができます。例えば、イエスさまのことをある程度知っていたとか、イエスさまの醸し出すオーラに引き込まれたのではないかなどと、しかし、本当のところよくわかりません。ペテロとアンデレの兄弟は、何もかも捨てて主の呼びかけに従ったとあるだけで、とても不思議です。主に従うということには、論理的理由などいらないかのようです。
 現在も聖霊となられ、働いておられるイエスさまは、私たちの日常生活の中においても、「私たち一人一人に向かって、「わたしについて来なさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。しかし、私たちはつい自分の思いや都合を優先させてしまうのではないでしょうか。私たちはいつでも主の招きをお断りするそれなりの言い訳を持っているのです。私たち教会、つまり牧師や信徒は、「日本は異教社会ですから、なかなか伝道するのはむずかしです」とつい言い訳を主に対してしてしまいがちです。
 ペテロとアンデレの兄弟に続けて、イエスさまはゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟に呼びかけました。彼らも漁師でした。父親は網元で彼らは家業を継がなければなりませんでした。ですから彼らは、「年老いた父親の面倒を見なければなりませんし、家業も継がなければなりません」といって断ることができたにもかかわらず、父親を残してイエスさまにすぐに従いました。
 では、このペテロとアンデレの兄弟、そしてヤコブとヨハネの兄弟たちの召命の記事は、一体何を伝えようとしているのでしょうか。
 まず、第一に、主に従う決心をすること、その決心をするのは今だ、と言うことだと思います。召命だけでなく、主から呼びかけられたなら、その呼びかけが何であれ「まず一歩を踏み出す」ということです。
 そして、もう一つ伝えていることがあります。イエス・キリストへの服従は、イエスさまに対する信仰告白に先立つということです。
 イエスさまがシモンとその兄弟アンデレにおかけになった言葉は、「わたしを信じなさい」ではなく、「わたしについて来なさい」です。私たちは信じてから従うのではなく、従う中で信仰を学ぶのです。シモン・ペテロたちが信仰告白をしたのはずっと後のことです。彼らは、イエスさまに従って行く中で、少しずつ、自分が従っている方が誰であるかを悟って行ったのです。弟子たちが信仰を告白したのは、イエスさまから召命を受けて、大分たってからのことです。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしのことを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です。』と答えた」(マタイ16:15,16)。
 洗礼を受ける時も同じだと思います。必ずしも信仰の確信が持ててからでなくてもよいように私は思うのです。イエスさまの12弟子たちのように、イエスさまのみ声(み言葉)に聴き従って行くうちに信仰が深められ、主イエスをキリストとして告白する者に変えられていくのではないしょうか。信じたいという気持ちがあれば、十分なのです。求められるのは従うことなのです。
 ボンヘッファーも「キリストに従う」という著書の中で次のように言っています。「信じるならば、第一歩を踏み出せ。その第一歩がイエス・キリストに通ずるのである。…あなたが信じているか信じていないかを問う問いは、あなたに委ねられているのではない。従順の行為こそがあなたに命じられている・・のである。その行為においてこそ、信仰が可能となり、また信仰が現実に存在する状況は与えられるのである。」と。
 最後に、マタイ4章23節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。
 このみ言葉は、二つの文章からなっています。前半は「イエス・キリストの教え」、後半は「イエス・キリストの御業」です。このことはマタイ福音書を構成する枠組みともなっています。
 本日のみ言葉は、私たちが主イエスに従い、教えを受けつつ、主イエスの御業を見、経験していくうちに、私たちの信仰は深まり、主イエスのお働きの一助を担う者に、また主の証人(伝道する者)に変えられていくということを伝えているのです。

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