「苦労の絶望の向こう側」 伝道の書2:18~26

「聖書の学びの会」2023年1月11日
 
 法亢聖親牧師からのメッセージ

       説教題 「苦労の絶望の向こう側」            伝道の書2章18節~26節

 「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることをわたしは見た。だれが神を離れて、食いかつ楽しむことのできる者があろう。」(伝道の書2:24,25節)
 この伝道の書を表した「伝道者」ほど、財を蓄えた人はいなかったでしょう。ダビデの子エルサレムの王(伝道1:1)と名乗っていることからソロモン王のことであると考えられます。ソロモンは、世界の三大賢人の一人です。その偉大な知恵と権力を用いて、様々な事業を行い、巨万の富をえました。労苦しつつも、楽しみながら事業を展開しましたから、労苦そのものが彼の命を損なうことはありませんでした(2:4~10節)。
 ところが、自分の事業と労苦を振り返って熟考(じゅっこう)した時、彼は自分の労苦そのものを憎んだのです。巨万の富を跡継ぎに残さなければならないからです(18節)。
 伝道者の事業家としての才能(知恵)は特別なものでした。彼だからこそ驚くほどの富を獲得することができました。しかし、死と言う観点から富を見直した時、彼の考えが変わりました。死んだら、富は自分の手には残りません。誰か別の人がそれを支配するようになり、その人の思いどおりに用いられます。相続者が伝道者並みの知恵者であれば、富は有効に用いられるかもしれませんし、さらに多くの富を蓄えることができるかもしれません。しかし、才能のない人(愚かな者)が富を受け継いだなら、すべてを一瞬のうちに浪費してしまうでしょう。「愚か者が後継者にならないように、才能のある人を事前に選んだらどうだろうか」と、人は言うかもしれませんが、死んだ後のことを思いどおりにコントロールできるでしょうか?できません!(19節)。
 伝道者はここまで自分の話をしてきましたが、20~23節ではあらゆる人の上に振りかかる現実に視点を広げます。死んだら、その人が才能を用い、労苦し、思い煩い、苦痛といらだちの中で獲得したものを誰かに譲らなければなりません。あれだけ労苦し、思い煩って苦労しても、自分の手には残らないのです。この現実を思い、そんなことを考え始めたら夜も眠れません。こうして、伝道者は絶望するのです(19~23節)。
 自分は永遠に生き続ける、今、獲得しているものは、永遠に自分の物だ、と誰もが勘違いしています。死は、私たちが患っているこの病に効く、口に苦い良薬です。「死の陰に生きている」ことを覚えるならば、富への態度は変わり、働き方も変わります。 
 伝道者の労苦は無駄であったかのように思えます。死は彼の手からすべてを奪い取り、何も残らないからです。彼の人生はそんな「むなしい人生」なのでしょうか。「すべては、空の空」なのでしょうか。 知恵に富んだ伝道者は、さらに考えます。富は、いつかは誰かのものになる、しかし、自分には神さまの手から賜物が与えられている、と気づくのです。「楽しみと満足」が与えられている。労苦の中で味わう楽しみと満足という賜物であり、飲食するうちに過ゆく時間という賜物です。働いている時、誰かと共に食事をしている時にしか味わえないもので、すぐに過ぎ去っていきます。しかし、味わった事実は消えない、実によいものなのです。 神さまの賜物に目が開かれる時、労苦に対する態度は大きく変わるのではないでしょうか(24~26節)。

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