「神の風を受けて」マルコによる福音書4:35~41

深谷教会降誕節第3主日礼拝2023年1月8日
司会:廣前成子姉
聖書:マルコによる福音書4章35~41節
説教:「神の風を受けて」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-494、475
奏楽:小野千恵子姉

       説教題 「神の風を受けて」                (マルコ4:35~41)       

 「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」 (マルコ4:35)
 「我思う、故に我あり」というデカルトの言葉は、有名です。しかしデカルトより400年も前にトマス・アクイナスが「我あり、故に我思う」という言葉を語っています。日本ではあまり聞いたことのない言葉ですが、世界的には有名な言葉で、深い真理を伝えています。現在の日本ばかりでなく、世界の歩みが破局的な様相を呈しているのは、このアクイナスの言葉を人類が無視し、人間の理性と知性にだけ全幅の信頼を寄せてきたことによ
って引き起こされて来ていると思います。つまりデカルトのいう「我思う、故に我あり」ということで、人間は我を基準にし、人間を基準にして生きてきたため、環境問題を引き起こし、戦争を引き起こし、地震にともなう原発事故を引き起こしています。個人的にも自分を基準にしている人が多くなってきています。
 聖書は、こうした現代の私たちに呼びかけています。『初めに神がおられ』私たちは神によって造られ、神のみ手の中に存在しているのだ。」と創世記1章やヨハネによる福音書1章で宣言しています。この真理をトマス・アクイナスは、「我あり、故に我思う」と語ったのです。つまり、「神によって造られた者であるが故に神のみ心を思う。」と。
 コヘレト(伝道の書)の伝道者が言っています。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」(伝道の書3章11節口語訳)
 「私が、私が」と言って主張してやまない私たちですが、そのような私たちの存在の基盤は、実は私たちにあるのではなく、神さまにあるのです。私たち一人一人が神さまのみ手の中にあるのです。新約聖書は、イエスさまの豊かな憐れみといつくしみの愛の内に一人一人が入れられていることを伝えています(イザヤ書43章4節、46章3、4節)。   
 このことを気付かせるためにクリスマスの出来事が2000年前に起こったのです。
 神さまが、私たちのために、私たちの側に立ってくださったというまことの愛が示されたのがクリスマスです。それも神さまが人間を造られた故に造りっぱなしでなく責任をもたれることを証しする出来事であったのです。
 このクリスマスの出来事から一つの導き出される生き方があります。相手の立場に立って生きる生き方です。具体的には、日ごろの挨拶がヒントになります。「おはようございます」もそうですが、「お元気ですか」やイスラエルのシャローム(主の平安があなたにありますように)などみな、相手が主体、あなたが主語です。つまり、神のみ心を祈り求める祈りを日々ささげていく時に、主イエスを心の内にお迎えした私たちの信仰は成長していくことができるのではないでしょうか。
 神さまあなたはどのように生きることをお望みですか。どちらの道を選んだらよいでしょうか。今日、どのような出会いをお与えくださいますか。また、「主よ、あなたのみ旨をお示しください。」と。こうした祈りを続けていきますと、家族のための祈り、「家族のためにどうしたらよいでしょうか。」「伴侶は何を考え、何を望んでいるのでしょうか。」というように、自分中心の祈りが、相手や隣人のための祈りに変わっていきます。自分がどうしたいのか、どう接していってよいかが分かってきます。愛は、相手の立場に立って考え、相手に対して責任を持つことに他ならないからです。
 トマス・アクイナスは、その真理を「我あり、故に我思う」と表現したのです。「我は神によって存在たらしめられている、故に我は神のみ旨を思い、祈り求む」と。つまり、私たちは神に愛されている存在だから、神のみ旨を思い、互いに愛し合って生きる時、自分が生き、生かされていることを自覚できるのだと。
 本日の聖書マルコ4章35節以降にイエスさまが弟子たちを連れてガリラヤ湖の対岸に渡ろうとされた時の出来事が記されています。5章によりますと向こう岸には、ゲラサ人が住む町があります。おそらくユダヤ人とは、違う信仰を持った人々であったようです。イエスさまは、そのゲラサ人の町に行く前に奇跡を起こされたのです。
 突風(嵐)に向かって「黙れ、静かになれ」と言って突風をやませ、湖を凪(なぎ)にかえられたのです。このことは、弟子たちの心の中にイエスさまがいらっしゃるにもかかわらず、ゲラサ人の所へ行って伝道しても無理だという思い、常識といいますか、逃げの思い、あきらめの思いが嵐となって渦巻いていたことの象徴のように思われます。消極的な(マイナーな)思いが弟子たちの心を支配していたのだと思います。イエスさまが艫(とも)の方で眠っていらしたというよりも、弟子たちのイエスさまを信じる信仰、従って生きる信仰が眠っていたのではないでしょうか。
しかし、弟子たちが「イエスさま起きてください」と呼びかけ、救いを求めた時、イエスさまは、起き上がり、人の思いや、人間の力では、不可能なことを可能にしてくださったのです。私たちは、とかく目の前に起こった出来事や与えられた課題の大きさ、重さを見て、慌てふためき祈ることを忘れてしまいます。
 私たちは一切を主に委ねているはずなのですが、いざとなると自分の力に寄りかかり、「できるできない」を判断し断定してしまいます。けれどもそんな私たちにイエスさまは、私と一緒に向こう岸に渡ろうと声をかけてくださいます。
 イエスさまは教会という船に、私たちが乗っている深谷教会という船にお乗りくださり、嵐を静めてくださるのです。また、欠け多い者をも宮として神さまは宿ってくださり、イエスさまは聖霊となられ共に生きてくださるのです。神さまは、み言葉を通して、私たちにこの世の荒波を乗り越えて行く風、即ち聖霊の風を送ってくださり、心に平安と希望と勇気とを与えて前進させてくださるのです。

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