「救いの力の使い方」ローマ15:1~6

「聖書の学びの会」2022年11月30日
 法亢聖親牧師からのメッセージ

  「救いの力の使い方」              ローマ15章1~6節

 「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図(はか)って彼らを喜ばすべきである。」(15:1,2)
 この章のはじめに「わたしたち強い者は」と記されており、「えっ、なんで」と思われる方もおられるかもしれません。「わたしは強い者だろうか」と思ってしまうからです。「強い」と言う言葉は、ギリシア語のデュナトス「力(デュミナス)」からきている言葉です。デュミナスは、ダイナマイトの語源となったことは有名です。パウロの冒頭の強い者とは、力強い者と言うことで、私たちが生まれつき持っている、身体能力や知的能力を指しているのではなく、イエス・キリストの救いによって与えられた、聖霊の力によって強くされていることを指しています。
 イエスさまは、「聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果て、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と語られました。イエスさまを信じて救われ、聖霊を受けた者は、神さまの力が与えられます。この力は世に勝つ力(Ⅰヨハネ5:4)です。それは罪に勝つ力であるとともに、隣人を自分のように愛する力です。私たちにこの力が与えられたのは、自分を喜ばせるためではなく、隣人の霊的な成長のためでした。
 キリスト者になると生きる目的が変わります。あるいは、生きる目的が明確になります。それまでは、自分を喜ばせるために生きていました。自己中心の世界に閉じ込められていたからです。しかし、イエスさまの十字架と復活による愛の力が、この「自己中心」という固い殻を打ち破りました。ですから私たちはもう、自分のためだけには、生きることはできなくなったのです。それは、むなしい生き方だと悟りました。誰かの霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせることが、私たちの喜びとなり、生きる目的となったのです。
 18世紀のドイツで信仰共同体モラビア兄弟団の結成に貢献したチィンツェンドルフ伯爵は、ある美術館の一枚の絵の前に釘付けになりました。茨の冠をかぶったキリストが十字架に架けられている姿が描かれた下に「わたしはあなたのためにこのことを行った。あなたは私のために何をするだろうか」と書いてあったのです。その時、彼の心に「これからは、主イエスがしめされることを何でもしよう」との志が与えられたのです。この共同体から世界中に宣教師が遣わされて行きました。
 私たちは、キリストによって与えられた「救いの力」を何のために使うのでしょうか。
 パウロは、エペソの教会の長老たちを前にしてミレトスでの告別説教で、「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(使徒20:35)と語りました。「受けるよりは、与える方が、さいわいである」、これはイエスさまの語録であり、イエスさまの生き方そのものでした。

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