「人間の都合、神の都合」ルカによる福音書19:1~10

深谷教会待降節第1主日礼拝2022年11月27日(アドベント)
交換講壇
聖書:ルカによる福音書19章1~10節
説教:「人間の都合、神の都合」
   西川晃充牧師(行田教会)

              「人間の都合、神の都合」  (ルカ福音書19章1-10節)

 本日は、「待降節第一主日」ということで、主イエスの到来によって救いが訪れた一人の人物、ザアカイに焦点をあててお話をいたします。
ザアカイという名前は「義しい人」を意味するヘブライ語ですので、ザアカイの両親は、彼に「義しい人」になってほしい、という思いからザアカイという名をつけたのでしょう。ところが、彼は大きくなって悪名高い「徴税人」の道を選び取るのです。
このザアカイの住むエリコという町に、ある時、主イエスが来られることになりました。すると、人々は「この方こそメシアかもしれない」との期待から「一目お目にかかりたい」と思って通りに繰り出してきたのです。
 「自分は人々から軽蔑され、常に孤独の中にあるけれども、この方の周りにはいつも人だかりができ、人々から尊敬の目で見られている」とそう思って興味を持ったのか、ザアカイもまた主イエスを一目見ようと町の通りに出かけました。ところが、彼は「群衆に遮られて」見ることができなかったのです。これは彼が単に「背が低かったから」というよりも、彼と群衆の間に「敵意の中垣」があったからです。
そこでザアカイは、群衆を避けて「いちじく桑の木」に登ることにしました。しかし、この「敵意の中垣」は「いちじく桑の木」に登っても解決できる問題ではありません。彼が主にまみえるために本当にしなければならないことは、人々との間にある「敵意の中垣」を取り除くことだからです。
そのようなザアカイに、主は「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とそう言われたのです。「主イエスの到来」というのは、常にそのような形で、私たちの「思い」や「備え」や「意志」とは関係なく突然訪れるのです。
 「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とあるように、主イエスを心から受け入れた彼は、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と宣言しました。この宣言は、ザアカイが自分の一番根本的な問題をしっかり見つめ、その問題に取り組むようになったことを示しています。
彼にとって一番根本的な問題である「敵意の中垣」は、「いちじく桑の木」に登っても乗り越えることができないものです。ただ主イエスの「良き訪れ」によって、彼は「木の高み」から「低み」へと降りることができたのです。
 主は、神の民の群れから失われていたそのザアカイを捜して救い出すために、また彼が悔い改めて「人々との良い関係」を取り戻し、神の民として「本当に生きる者」となるために、彼の家へと出向いて行かれたのです。「自らの罪」によって神から離れ、しかも「罪という根本的な問題」を見つめることを避けて生きていたザアカイの姿は、私たち一人ひとりの姿でもあります。

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