「私たちの理想を超えて」 マタイによる福音書22;41~46

深谷教会降誕前第5主日礼拝2022年11月20日
聖書;マタイによる福音書22章41~46節
説教;「私たちの理想を超えて」
   法亢聖親牧師

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説教題 「私たちの理想をも超えて」    マタイによる福音書22章41節~46節      法亢聖親牧師
             
 「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか』。」(マタイ22:43) 
 イエスさまには、2つのお名前があります。イエス(祝福を与える者)とインマヌエル(神は我らと共におられる)です。そして私たちはとかくイエス・キリストは、イエスさまのフルネームと思いがちですが、そうではないのです。キリストとは、称号でギリシア語のクリストゥース、もともとヘブル語の「油注がれた者」という意味をもつ言葉メシアから来ています。旧約聖書では、祭司、預言者、王様が神さまから油そそがれてその任につくことになっています。イエスさまは、神の独り子としてこの3つの職務を持つメシアとなられたことを新約聖書は、私たちに伝えています。
 イエスさまは、預言者として父なる神さまの御心を私たち一人一人に伝えると共に全人類に伝えて下さいます。また、大祭司として私たちと神さまとを結びつける執り成しをしてくださいます。その上私たち人間同士をとりなし結びつける働きもしてくださるのです。そして王として私たちの内に宿り私たち人類の敵サタンや死の棘である罪と戦って下さるのです。総じてイエスさまは、神さまが油注いで下さったメシア(救世主)ということができるのです。イエスさまは、私たち個人を救って下さるメシアであると同時に全人類を滅びから救いに導いてくださるメシアなのです。
 私たちキリスト者は、独り子なるイエスさまによって救に入れられ、神の子とされ神の国の世継ぎとされました。それと同時に、私たちは神の子として独り子なるイエスさまの職務を担う存在としてこの世に立てられています。
 イエスさまをキリストと告白した最初の人は、ペトロです。イエスさまが弟子たちに「あなた方は私のことをどう思うか。」との問いに対して「あなたこそ神の子キリストです。」と応えました。
 イエスさまは、ファリサイ派の人々にお訪ねになられました。「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか」(マタイ22:42)と。この主イエスの問いかけに対して、ファリサイ派の人々は、即座に「ダビデの子です」と答えました。ユダヤの人々は、『来たるべきメシアは、ダビデの子孫より生まれる』と信じていたのです。エレミヤ書33章14~16には、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。・・その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」。
 ダビデ王が活躍したのは、紀元前10世紀、今から3000年以上前です。預言者エレミヤが活躍したのは、紀元前7世紀2700年前です。それもイスラエルが分裂して北イスラエル王国は既に滅び、南ユダ王国はエレミヤの時代に大国バビロニアに滅ぼされてしまいました。ユダヤの主(おも)だった人々は、バビロニアに連れて行かれ捕囚の民となりました。いうなればエレミヤは、バビロニア捕囚期に活躍した預言者です。北イスラエルも滅びダビデの築いたエルサレムを首都とした南ユダも滅び完全に主の民の国イスラエルは滅亡してしまったのです。エレミヤはそうした暗闇の中にいた同胞イスラエルの民にイスラエルの回復、ダビデ王に匹敵する王がメシアとして現れるとの神のお告げを伝えたのです。イスラエルの民は、その預言にすがり希望をつないだのです。そしてその預言の半分は成就しバビロニア捕囚からの解放がなされ、イスラエルに帰還することができましたが、その後もイスラエルの人々は、イエスさまの時代に至ってもダビデ王のようなメシアを待ち望み続けていたのです。
ファリサイ派の人々の答に対して、イエスさまは次のように反論されました。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足下に屈服させる時まで』とこのようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのだろうか」(22:43~45)。
このイエスさまの言葉には、説明が必要です。イエスさまが引用されたのは、詩編110編1節の言葉です。この詩編は、「ダビデ王の詩、讃歌」と言う題名で、ダビデ王の作と言われてきました。このことが本日の御言葉のイエスさまとファリサイ派の人たちとの対話の前提にあります。「主は、私の主にお告げになった」の最初の「主」とは、「主なる神さま」のことであり、あとの「わたしの主」というのが「来るべきメシア」と受け止められています。それでイエスさまは、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」(22:45)と言われたのです。
当時の人々は自分たちの歴史においてダビデ王を理想化し、ダビデを超える存在は想定していないのです。主イエスが問題にされたのは、まさにその所でした。「その来たるべきメシアは、ダビデ王をして『わたしの主よ』と言わせるほどのお方である。そのメシアは形の上では『ダビデの子』として来られるが、実質的には、『ダビデ王の主』と言うべきお方である。その方は、ダビデの王座に就くにとどまらず、神の右の座につく。ファリサイ派の人々あなた方は、ダビデの子と呼ぶことによってかえって栄光を狭めている。メシアをダビデの子として限界づけることはできない。」とイエスさまは、このようにおっしゃったのではないでしょうか。メシアがダビデの王座につかれるとすれば、それは高い位を意味しているのではなく、むしろ謙遜、低くされた姿を現しているといことになるのではないでしょうか(イザヤ53章「苦難のしもべ」)。
 中世のアンセルムスは「プロスロギオン」と言う本の中で神の定義として「あなたが、それよりも偉大なものは何も考えられない何か、であることを、私たちは信じています」と書いています。アンセルムスの論敵たちは、「何よりも偉大なもの」とイメージして何かに置き換えてアンセルムスに反論しましたが、アンセルムスは、「ならば私たちの考えるものの中で最高のもの」として私たちの頭の中に入って来るものと説いたのです。私たちが考えられる偉大なものを超えた方、他の何かに置き換えることのできないものが、神さまなのです。
ユダヤの人々は、「メシアは、あのダビデ王のようにやってくる」「ダビデ王の栄光の時代が再びやってくる」と待ち望みました。それがユダヤの人々の考える最高のものでありましたが、イエスさまはそれを粉砕されたのです。
 キリストは、ダビデ王の子・子孫として生まれつつ、その称号には収まりきれないはるかに大きな偉大なお方です。ここで、問答をしているファリサイ派の人々にイエスさまご自身がメシアであるとゆさぶりをかけておられるにも関わらず、そのことに気づきませんでした。否、気付いたにもかかわらず受け入れようとはしなかったのです。その証拠にもはやイエスさまに問い返す者がいなかったのです。私たちのキリストは、今日も私たちの心の戸口に立って心の戸を叩いておられます(ヨハネ黙示録3:20)。耳を澄ませて福音を聞き、心を開いてそのお方を受け入れ新しい1週間を歩み出したく思います。また、来る主日からアドベントに入ります。主のご降誕を待ち望む心備えを致しましょう。 

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