「復活とは何か」 ルカによる福音書20:27~40

深谷教会降誕前第6主日礼拝2022年11月13日
司会:西岡義治兄
聖書:ルカによる福音書20章27~40節
説教:「復活とは何か」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-448、451
奏楽:小野千恵子姉

説教題 「復活とは何か」                 (ルカ20:27~40)       

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:42,43)
 本日の聖書に登場する、サドカイ派は、モーセ五書だけを神の言葉(聖典)としている人たちです。モーセ五書には、死人の復活の記事がありませんから、死人からの復活を認めませんでした。そのサドカイ派の人々が、イエスさまに尋ねたました。“モーセの律法では結婚している兄が子がないままで死んでしまった場合、弟が兄嫁をめとり、跡継ぎをもうけなければいけない(申命記25:5~10)ことになっている。そして、七人の兄弟がいて、長男が妻との間に子がないまま死んでしまった。妻は次男と結婚したが同じ結果になった。そういうことが七男まであり、最後に妻も死んだ。もし復活があるのなら、その時、この女は誰の妻になるのか。”この問いは、答えによっては律法違反になる問です。
 イエスさまは、彼らのこの質問にお答えになられました。
 「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(ルカ20:34~36)。
このイエスさまの答えの意味の一つは、死後のことを人間にはわからないということであり、人間が勝手に決めることではなく、誰が復活するかを決めるのは神さまのなさることで、人間が決めることではないということです。また、結婚は地上の制度であって、天の制度ではないのです。復活の命に生きている者は、次第に歳を取って死ぬ命ではなく、天使に等しい命に生かされるのです。復活はこの世の命の再生ではなく、人間は、それまでとは異質の神さまの子となるのです。
 イエスさまは、なおも続けられます。
 「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」(ルカ20:37)
イエスさまがここで挙げておられる「柴」の箇所とは、モーセ五書の出エジプト記3章~4章17節に記されているモーセの召命の記事のことです。
 この箇所で、神さまはご自身をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいます。族長たちの神さまは、永遠に生きて働かれる神さまなのです。このことが信仰の父祖たちが生きているしるしなのです。肉体をもって、今も地上を生きているわけではありません。彼らの肉体の命(この世の命)は死んだのです。しかし、主なる神さまは生きておられるのです。その神さまと、彼らは信仰において今も結び付いているのです。彼らの肉体の命は死んでも、霊の命を生きているのです。イエスさまは言われます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(ルカ20:38)。
 私たちは、肉体の命において死んだ者を故人と言います。それは、一面で正しいことです。しかし、それは神さまのことを故人のように扱うことになるのです。私たちの父なる神さまは、死んだ者の神さまではなく、私たち父なる神さまを神さまとする信仰を与えられたものにとって、肉体の命(この世の命)の死がすべての終わりを意味するのではないのです。
 「すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20:38)は、解釈が分かれるところです。「すべての人は、神によって生きている」と受け取ることもできますし、「すべての人は神に向かって生きている」とも受け取れるからです。
 「すべての人」とは何を指しているのでしょうか。すべての人と言うのですから、地上に生きている人と解釈することができます。しかし、神さまを否定している人もいますし、昔も今も父なる神さま以外のものを神としてあがめている人もいます。こうした現実をどう理解したらよいでしょうか。人間にとって主観と客観は違うのです。主観的にどう思っていようと、人間は神さまに造られた被造物なのです。被造物の幸せは、創造主の意図通りに生きることです。しかし、人間は自分を中心に考えるエゴイズムに陥り、主観的には神さまを排除してしまうのです。実は、幸せを求めているのに、こちらに幸せがあると思い込み、不幸に向かって歩んでしまう、そういう勘違いが人生にあるのです。
 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすればキリストは、あなたを照らされる。」(エフェソ5:14)
 この聖書の箇所の、「眠りについている者」「死者」とは、自分が神さまの被造物であることを認めないで、主観的に幸せを求めているにも関わらず、客観的には不幸になる道を歩んでいる人たちのことです。すべての人は神さまの創造物です。しかし、そのことに気づき、自分自身が罪びとであることに気づき、悔い改める者は救われ、神の子として永遠の命を得、人生の方向を、滅びの方向から神の国に向かう方向へと転換することができるのです。
 自己中心に生きている生き方から神さまの御顔に向き返って生きることを意味しています。だが主観的な生き方(自己中心的な生き方)にこだわり続ける人は、健康で楽しんでもいるのですが、神さまの目から見ますと永遠の命の源なる神さまにつながっていないゆえに死んでいるのです。私たちの父なる神さまは、すべての人が目覚め、立ち上がり、永遠の命をもって神の国に帰るという希望をもって生きて行ってほしいゆえに、全ての人を招いておられるのです。
 さて、本日の聖書の箇所に戻ります。サドカイ派の人々の問いに対するイエスさまの答えを聞いて、律法学者の中には「ラビ(先生)、立派なお答えです」(20:39)と言う者もいましたし、サドカイ派の人々も律法学者たちも、イエスさまに「もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」(20:40)のです。   
 本日の聖書の箇所もそうですが、復活は、父なる神さまと結ばれてはじめて真の復活があるということです。最後に、「復活」と「再生」の違いを見てみましょう。サドカイ派の質問のように私たちは天の御国においても肉の体を持つのではないかと思いがちです。私たちは、よく天国のおじいちゃんとおばあちゃんは仲良くお茶を飲んでいると言ったりしますが、天国でずっとおじいちゃんとおばあちゃんは高齢者の夫婦のままなのでしょうか。それは再生であって、天国の様子を自分中心に考えているだけです。それに対してパウロが「わたしたちは、朽ちるものとして蒔かれ、朽ちないものとして復活すると言います」(Ⅰコリント15:42,43)。これは世の終わりの時に、個人的には、この世の命が終わった時に、イエスさまが実現してくださることです。朽ちないものがどのようなものか、そして神の国がいつ完成するかは分かりません。でも主イエス・キリストが神の国を完成し、その時に死人は復活するのです。私たち信仰者は、そのことを知らされ、その日に向かって生きているのです(15:20節以下)。
 ですからパウロは、こう言うのです。
「わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の御業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです」(15:58)。
 信仰によって主イエス・キリストに結ばれている私たちは、絶えず新たに主を受け入れつつ、愛に生きたいと思います。そうした労苦は、「決して無駄にならないことを」私たちは知っているからです。
 

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