「価値観の多様性を受容する」 ローマ14:1~12

「聖書の学びの会」2022年11月16日
 
 法亢聖親牧師からのメッセージ

「価値観の多様性を受容する」   ローマ14章1~12節

 14章1節に「信仰の弱い者を受け入れなさい。ただ、意見を批判するためであってはならない」とあります。「信仰が弱い」とは、どういうことでしょうか。
 ここで使われている「アッセネオー」というギリシア語は、病気など体の弱さを指す言葉ですが、「動きが少ない」という元の意味から、「狭い考え」と言う意味にとることもできると思います。
 パウロは、この章で二つの事例を引き合いに出しています。一つは、「食物」、もう一つは「暦」です。当時のキリスト者の中には、ひょっとして偶像にささげられた肉かもしれないと過度に恐れて、肉を食べないで野菜だけを食べる人たちがいたようです(宗教上のことですから現代のベジタリアンとは違います)。また、ある人たちは、ユダヤ教徒だったことから過ぎ越しの祭りや新月の祭りなどの暦を特別に大事にしていたようです(元のユダヤ教)。
 どちらも主を愛する信仰を大切にしようとするゆえに、規則を厳密に守ろうとする思いが根底にあるのです。それは、「狭い考え」と言えるのかもしれません。あるいは、ある意味で「信仰の弱さ」といえるのかもしれません。
 パウロはどちらも主のためにしているのだから、それぞれ自分の心の中で確信を持つべきであると言っているのです。他の人が、事の善悪を判断するべきではなく、そうした考えや行動をさばいたりしてはいけないのです。
 パウロは、キリストにある自由人でした。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない人たちには、律法を持たない者のようになりました(Ⅰコリント9:20.21p266)。核心をつかんでいるがゆえに、自分のこだわりを捨てて、相手の価値観に合わせることを、なんとも思いませんでした。キリストの救いのすばらしさを知れば知るほど、周辺の規定や規則への執着は消えていくと思います。もちろん、律法をないがしろ(無律法主義)とは、ちがいます。律法の本質であるイエス・キリストを知っているので、それは、自己の内に成就しているのです。これは、キリストとの豊かな交わりがもたらす「ゆとり」と言うものかもしれません。
 現代は、多様性の時代を迎えています。様々な価値観を持つ人たちがいます。LGBTQの問題など、正直、どのように考えたらよいかわからないという方もおられるのではないでしょうか。(以前は、お墓や葬儀のありかたが大きな問題でありました。)
 私たちは、自分が学んで確信したところに留まるべきです(Ⅱテモテ3:14p335)。その上で、キリストにある寛容をもって、多様性を受け入れるべきかと思います。明確に、聖書の教えに反しない限り、自分と考えの異なる人をさばかず、主にゆだねることが、この時代を、互いが心穏やかに生きる秘訣ではないかと思います。
 私たちには「麦と毒麦」(マタイ13:24~30p21)のように、ちょっと見ただけでは分からないことも少なくありません。性急に答えを出さずに、神さまのさばき(判断)におゆだねすることが良い場合もあると思います。
 「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」(14:4)。すべての人は、最後に、神さまの前に申し開きをすることになります(14:12,マタイ12:36p19)。 

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