「その時が来るまで」マタイによる福音書13:24~30

深谷教会降誕前第8主日礼拝2022年10月30日
司会:渡辺清美姉
聖書:マタイによる福音書13章24~30節
説教:「その時が来るまで」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-474、436
奏楽:杉田裕恵姉

説教題 「その時が来るまで」             マタイ13章24節~30節     

 「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。・・』」(マタイ13章29節)
 本日のたとえに出てくる毒麦は、日本人の私たちにはあまりなじみのない植物ですが、パレスティナの人々にとっては、ごくありふれたパレスティナ全域に自生している麦に似た雑草です。毒麦と言いますとなにか恐ろしげですが、この草自体には毒がありません。ただし、めまいや吐き気をもようさせる毒性の菌がこの草につきやすいためにそのような名前で呼ばれるようになったのです。
毒麦の名前の由来が、この通りだとすればイエスさまのたとえは一層私たちにとって身近なものとなります。毒麦は毒麦と言うレッテルを貼られているだけでもともとは、人に害を及ぼす毒を持つ草ではないからです。悪い菌がつかなければもともとは、普通の草なのです。私たち人間ももともとは、神さまによって造られ、この世によしとされて遣わされてきた存在です。本来私たちは誰もが神さまに愛されるために生まれて来たのです。また、神さまと人を愛するために生まれて来たのです。
 ところが創世記3章に記されているように、アダムとエバは各自の自由意思によって神さまに背き、神さまのご命令を無視して、サタンにそそのかされてサタンのことばに聞き従い自分中心に生きるようになってしまったのです。そこから人間の悲劇が始まりました。
本来人間は、神さまの息(ルアッハ)を頂いてこの世に遣わされてきたのです(創世記2:7)。この命をこの世で完全燃焼させて各自の使命を果たし終えたなら私たちのまことの命、永遠の命を神さまの元へお返ししなければならないのです。つまり私たちの命は神さまからの授かりもので、神さまにお返しするように、神さまのもとに帰るように造られているのです。
 人間の命だけは、他の生き物と違い神さまの息を土の器の中に吹き込んでいただいた時生きるものとなったのです。「子は神さまからの授かりもの」と言われますが、まさに人間の子供のいのちは、神さまから託された大切な神さまから授かった命なのです。故に、子供の命を大切に育てなければならないのです。この大切な命を私たちは、お互い大切に守り合い、そして自分の命も大切にしなければならないのです。自分の命を大切にするとは精一杯生きることです。また、信仰の父祖アブラハムがそうであったように神の御言葉に聞き従って生きることが求められています(創世記12章)。具体的には、神さまの愛の教えに導かれつつ生きることです。そうすることによって人類は平和に暮らし、この地球と自然そして他の生き物をよく管理していくことができるのです(創世記1章)。新約の時代を生きる私たちは、神さまの愛の律法の完成者イエス・キリストを信じ受け入れ、主と共に隣人愛の道を歩んでいけば、神さまの国に帰ることができると新約聖書に記されています。
 本日のたとえの主人とは、イエスさまのことです。神さまがよい種を蒔きました。ところが夜、敵のサタンが麦の中に毒麦を蒔いたのです。つまり麦に毒の菌をつけて行ったということでしょうか。毒の菌に感染したものは、収穫の時になるまで見分けがつかないと言うことでしょう。
イエスさまは、ほかのところで、「良い木は実で分かる。良い木は良い実をならせ、悪い木は悪い実をつけるからである」と。収穫の時主人は、麦と毒麦とを注意深くまざらないように集め、まず、集めた毒麦を焼かせます。次に集めた麦の方は、「倉に入れなさい、つまり天国に入れなさい」と言われるのです。13章30節には、最後の審判のさまがたとえの形で語られています。30節で主人であるイエスさまは、刈り入れまでそのままにしておきなさいと言われるのです。ここに本日の御言葉の福音があります!私たち人間にとってよい知らせ、神さまからのグットニュースです。だがしかし私たちはこのたとえから最後の審判があるというメッセージにとらわれるのではなく、裁きの時までには、時間があるという点に注目したいと思います。
 自然界の植物である毒麦に限っていえば、それがいつの間にか麦に、しかも良い麦に変わるということはありえません。リンゴの木が柿の実をつけるということがないように。しかし、それが人間の世界では悪しき者が良き者に変わることがあるのです。ここに登場する主人が「刈り入れまで両方ともそのままにしておきなさい」と命じた言葉の裏側には、そのような変化が毒麦の上に起こることを期待する願いが込められているのです。まさに神の国の遅延は、神さまの愛のみこころであり、全人類が神の子、神の民に立ち帰る猶予の期間であるのです。
 キリスト者である私たちは、主の祈りを祈り続けています。その中に「御国がきますように」という1節があります。この祈りを祈り続けて2000年たちました。しかし、今もってなお「神の国」は私たちの前に実現していませんし、また、いつ到来するかもまったく分からない日々が続いています。イエスさまが2000年前にいらして(ご降誕され)「十字架の死と復活において全人類の救いを完成されたのですから、神の国がもう到来してもよいように思われます。かなり遅すぎるのではとさえ思ってしまいます。しかし、この神の国の遅延は、神さまのこの世に対する計り知れない深い恵みと憐れみの意思が働いているしるしだと思います。主人であるイエスさまは、僕たちに「刈り入れまで、そのままにしておきなさい」と命じておられるのです。その時が来るまで、私たち人間が勝手に性急な答え、結論を出すことはいけないことです。私たちがなすべきことは、神さまから遣わされたこの時代、この世の中で神さまの畑を預かり、神さまの僕としてこの畑を耕し続けることだと思います。時が良くても悪くても、愛の御言葉の種を蒔き、水をまき、畑の作物が育って良い実を実らせるように祈りつつ見守ることです。私たちも神さまの定められたその日が来るまで、与えられた使命を祈りつつ、聖霊のお力を頂きながら果たして行きたいものです。           
                  

関連記事

PAGE TOP