「狭い門より」マタイによる福音書7:13~14

深谷教会降誕前第9主日礼拝2022年10月23日
司会:西岡義治兄
聖書:マタイによる福音書7章13~14節
説教:「狭い門より」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-436、375
奏楽:野田治三郎兄

説教題 「狭い門より」                     法亢聖親牧師
                 マタイ7章13節、14節     

 「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ:7:14)                   
 「狭き門」と言うことばは、一流企業や一流大学に入るのは「狭き門」だなどと言うような意味でよく使われますが、本日の聖書の箇所でイエスさまは、そういう事をおっしゃっているわけではありません。
 「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ:7:14)とあるように、入りたくても入れない「狭い門」ではなく、誰も入ろうとしない「狭い門」なのです。
 この点を頭に置いて本日の御言葉に聴いてまいりましょう。
〇まず第1に、本日の御言葉を教訓として聞くことができます。
 人生には2つの門、2つの道があり、一つの道は厳しく辛い道、もう一つは安楽な道です。安楽な道を選ぶ誘惑に打ち勝って、辛い険しい道を選ぶ方が、本当に意味ある人生を歩むことになるという解釈です。 ただしイエスさまは、こういう事だけを言おうとしているのではありません。
〇キリストに従う道  
 ではいったいイエスさまがおっしゃる「狭い門」「細い道」とは、何のことでしょう。
「だから、人にしてもらいたいことは何でも、あなたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)。マタイ福音書のイエスさまの山上の説教は、5章からはじまり、7章12節まで続いて終わります。
 実は、本日の聖書の箇所は、山上の説教の締めくくりとなっていて、イエスさまが私たちに語られた神の子の歩むべき道、あるいは生き方をどのようにして聞き従っていったらよいかが記されているのです。山上の説教の中には、「汝の敵を愛しなさい」とか「天に宝を積みなさい」とか「兄弟に腹を立ててはならい」などとあります。実行することが難しいことばかりです。これが狭い門、細い道を解くカギになるのです。人生成功の秘訣ではなく、神さまの喜ばれる道について語られているのです。
〇人生は選択の連続、判断基準はどの道がイエスさまに喜ばれる道か。
 人生は選択の連続です。人生の分岐点ともいうべき、大きな選択もありますし、小さな選択もあります。小さな選択はともかく、特に先の大きな選択をするときに何を基準にしたらよいでしょうか。さまざまな判断基準が考えられます。損か得かと言う基準、成功するかしないかという基準、人がどう見るかと言う基準などなどがあります。だが本日の御言葉は、自分や人を基準とするのではなく、どの道がイエスさまに喜ばれる道かを判断基準とするようにとの勧めなのです。その流れの中でイエスさまの御言葉に従って生きるということは、まことに狭い門、狭い道と言うことになるのです。
〇「悪魔の道は、いつも美しく、立派に舗装されている」
 多くの宗教のパンフレットには、この宗教を信じるといい事がありますよ。幸せになりますよ。病気が治りますよ。などという謳い文句が踊っています。人生の成功を約束するようなことが書かれています。しかしイエスさまを信じて従って生きていくということは、決して人生成功の秘訣の道ではないのです。イエスさまご自身神さまに従順に生きられたがゆえに十字架につけられ殺されてしまわれたのです。ですから、イエスさまに従って生きる者も多かれ少なかれそれに似たような面を体験しなければならいのです。「悪魔の道は、いつも美しく、立派に舗装されている」と信仰の先達が言っていますが、信仰生活の中にも、この悪魔の道は入り込んできます。悪魔は、誘惑者、故に美しい道を示しながら滅びに至る門へといざなう(誘導する)のです。
〇イエスさまの言われる狭い門の向こうには、どんな道があるのでしょうか。
 イエスさまの十字架という狭い門から永遠の御国に至る道に入れられた私たちでありますが、それでもどちらがイエスさまに従う道なのか、どちらが神さまが喜んでくださる道なのか迷うことが多くあります。先輩牧師に言われた言葉を思い出します。「どちらが神さまに従う道か迷ったら、たいてい困難な方を選べば間違いない。」と応えてくださいました。しかしそう決めてしまうことも危険です。私たちは真剣に祈る時、どちらに進むべきか、どちらの道を選ぶべきかを神さまご自身が示してくださるのを待つべきだと思います。イザヤ書30:19~21に「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け』と」(イザヤ30:21)。
 私たちは自分の考えに固執せずに、心を神さまの方へ開いて神さまの声を聞かなくてはならないのです。個人だけでなく、教会もそうです。一度神さまの啓示を受けたのだからこの計画は変えられないと自己絶対化することがあるのです。しかし神さまは、生きて働かれ、絶えず私たちを最善から最善へと導いてくださるのです。その証拠に深谷教会の70周年当時のミッションと100周年を迎えた時のミッションと、そしてコロナ禍の今の深谷教会が神さまから委託されているミッションとは違っているのです。その時代、その時々に新しいミッションが与えられるのです。
 イエスさまに従っていく道は、確かに狭い門であり、細い道です。しかし、そこを歩むとき、私たち自身がこの世的成功とは違う祝福を得ていることに気づかされるのです。
 神学者のヘルムート・ティリケが次のように言っています。「突然、人はこの狭さの中に本当の広さを、死の中に真の生を、人を困難に落とし入れるかに見えるお方の中に、大いなる解放者を見いだすのです」と。

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