「救いはあなたの近くにある」ローマ10:5~13

「聖書の学びの会」2022年10月19日

 法亢聖親牧師からのメッセージ

「救いはあなたの近くにある」   ローマ10章5~13節

 「主のみ名を呼び求める者は、すべて救われる」(10:13)
 この箇所は、9章に引き続き、ユダヤ人クリスチャンへのパウロのメッセージが記されています。イスラエルの人たちは、神さまに対して熱心だけれども、その熱心は知識に基づくものではないと、パウロは言うのです(10:2)。パウロは、「律法による義」と「信仰による義」を対比させながら、「律法による義」を求める者は、結局、自分の義を建てようとしているに過ぎない、真に律法が目指しているのはキリストであって、それは「信仰の義」によってのみ、獲得されるものなのだと言うのです。 注1:マタイ5:17
 ローマ10章6~8節は、申命記30書11~14節がベースとなっています。ローマ10章6節の「あなたは心のうちで、『誰が天に上るであろうかと言うな」と言うのは、申命記30章の12節「これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、我々に聞かせ、行わせるであろうか』と言うにおよばない」と対比されています。それは、せっかく贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストを、十字架から引き下ろすことと同じだとパウロは言うのです。
 続くローマ10章7節の「『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』と言うのは、申命記30章13節「また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが我々のために海を渡って行き、それを我々のところへ携えてきて、我々に聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。」を要約した言葉です。それは、私たちの罪を赦すために、陰府(よみ)にまで下られたイエス・キリストを、人為的によみがえらせようと無駄な努力をするようなものだ、とパウロは言っているのです。
 つまり、パウロは、「信仰による義」は、「律法による義」と違って、どこか遠くにあるのではなく、あなたの近くにあるというのです。せっかく、イエス・キリストが、十字架と復活による贖いを成し遂げてくださったのに、救いが、まるで手の届かない、どこか遠くにあるものであるかのように探し回ってはならないのです。そこでパウロは、今度は申命記30章14節の「この言葉はあなたに、はなはだ近くにあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」と対比させて、ローマ10章9節で、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と述べています。
 私たちは、試練に遭うと、イエスさまの救いをどこか遠くに感じてしまうことがあります。そして、自分で解決策を探し回り、ますます、不信仰の泥沼にはまっていきます。それは、行いによる義を求めることと同じなのです。ローマ9章30、31節には「では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に到達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである」とあります。同じ過ちを繰り返さないよう、気を付けたいと思います。

「主のみ名を呼び求める者は皆救われる」のですから、幼子のように、単純に主を信じて、救いにあずからせていただきましょう。注2:マルコ10:15  

祈りましょう。
 神さま、私たちは、時々、イエスさまの救いがどこか遠くにあるかのように思ってしまうことがあります。そういう時こそ、すぐに主イエスのみ名を呼び求め、祈ることができるようにしてください。私たちの信仰を助け導いて下さい。
                                み子のみ名によって祈ります。 アーメン

注1:マタイ 5:17 律法と預言の成就者イエス・キリスト
注2:マルコ10:15 幼子のような信仰

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