「神さまと富」 マタイ6:19~24

深谷教会聖霊降臨節第20主日礼拝2022年10月16日
聖書:マタイによる福音書6章19~24節
説教:「神様と富」
   法亢聖親牧師

説教題 「神さまと富」                   

 ルカ福音書12章13~21節に「愚かな金持ち」のたとえ話があります。ある金持ちが大収穫のため倉庫を増築して収穫物を倉庫に納め終わり「これから先何年も生きていく蓄えができたぞ」と言った時に、神さまは、「愚か者よ、今夜、お前の命は取りあげられる。お前が用意した物は、いったい誰の物になるのか」とおっしゃいました。これは私たちへの痛烈な問いです。
 神さまは「財産を蓄えても仕方がない」とおっしゃっているのでしょうか。そうではないと思います。イエスさまは、「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)とおっしゃっています。つまり一日一日を精一杯働いてき生きていくようにと勧めておられます。イエスさまは、私たちが勤勉に働き、真剣に生きていくことを勧めておられます。
 それでは、一体神さまは、私たちがどのように生きていくことをお望みなのでしょうか。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・富は天に積みなさい。」(マタイ6:19,20)とあるように、神さまは財産を蓄えることの大事さを確認しつつ、「地上」ではなく、「天に」財産を蓄えるようにと勧めておられるのです。
 天に財産を蓄える(富を積む)とは、どういう事でしょうか。宗教改革者のジャン・カルヴァンがよく引用した次のような言葉があります。「人に与える富を除いて、あなたがいつまでも自分のものとして享受できるものは他にない。人に与えられたものは、運命の危機から免れているからだ」と言う古の人の言葉です。つまり、人のためにすでに使った財産だけが、いつまでも残るということです。「天に富を積む」ということは、そういうことと深いところでつながっているように思います。
 私たちは、自分の財産を神さまに喜ばれる形で有効に用いていくことによって、「天に富」を、即ち「天に貯金」をしていくのです。
それではなぜ、天に富を積むことを聖書は勧めるのでしょうか。財産そのものが悪いのではないのです。それを独り占めにして、自分のためにだけに使おうとする思いの中に、悪魔が潜んでいて、そういう思いが私たちを虜にしてしまうのです。だからといって「財産を捨てろ、富は悪だ」と言っているのではありません。
 富を人生の主人公にしてしまうこと、それに頼って生きることを問題にしているのです。イエスさまは、「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃっています。つまり人が生きていくのには、パンも衣服も住む家も必要だ、しかし人が人として生きていくためには、魂を養い育ててくださる神さまの言葉と神の霊(聖霊)の導きが必要だとイエスさまはおっしゃっておられるのです。
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ:6:24)。この24節の「富」という言葉は、19節と違った言葉「マモン」と言う言葉が使われています。マモンとは、人格を持った主人のように私たちを奴隷化する強い力を持ったものを表わします。つまり人を魅惑する魔性とか神さまから私たちを引き離す悪魔の力を持つものと言っても過言ではないと思います。もっとはっきり言いますと、この富(マモン)は、「物質神」になることを暗示する言葉です。ですからこの悪魔の力から自由になるためには、拝金主義から解放されるためには、真の神さまを神とすることによる以外ないのです。
 私たちは生活の中で、必ず何かを主人として生きています。「自分は何ものをも主人として生きてはいません」と言われる方もおられるかもしれません。しかし、その方は自分の理性を主人としてすべての事を自分で判断して生きているのだと思います。「頼れるのは自分しかない」と明言している人です。そうした方は、ぜひご自分に問うてみて下さい。「そんなに自分が自分の主人としてふさわしいですか」「あなたは自分についてどれほどのことを知っていますか」「自分は本当に信頼に足る自分ですか」と。私自身に関して言えば「ノー」です。自分がどれほど頼りにならないかは、自分が一番よく知っているからです。そんな頼りない自分が主人の座から退き、空席になった主人の座にすぐに別のものが来て座り込むのです。それが、お金であり、お金をくれる人なのです。
 私たちには、確かに生きていく上でお金が必要です。しかし、そのことは私たち以上に神さまがご存知です。神さまを自分の人生、生活の中心に据えますと、他のものが相対化され、絶対化されなくなります。きちんとその価値と限界が見分けられるようになります。
リストラされ困っていた時に新たな職場が与えられたこと、入院費が払えなくて困っていたらその費用を立て替えて下さる人が現れたたこと、授業料が払えなくて学校を辞めざるを得なくなった時、学業を続けられる道が開かれたことなどなど、人生には、乗り越えて行かなければならないさまざまな危機や出来事が降りかかってきます(6:33以降)。その時に、必要なのが澄んだ目、信仰の目です。この澄んだ目で見ますとそうした救いの出来事やその助け手をお立てくださったのは、神さまであることが見えるのです。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ6:22,23)
 私たちの目は、二つのものを同時に見ようとすると濁ります。何を信頼して生きるか、何を見つめて生きるかをハッキリさせて生きることが、即ち、焦点のさだまった目標のある生き方ができてくるのだと思います。いつも心のともし火のもとである澄んだ目、信仰を持ち続けるためには、聖霊の助けが必要です。
 「『マラナタ・主よ、来りませ』、そして、私の心の王座にお座りくださり信仰の炎を燃え上がらせてください」と祈り求めつつ歩んでまいりましょう。
 

関連記事

PAGE TOP