「ニコデモとイエスさまの会話」ヨハネ3:1~21

「小羊の会」2022年10月13日

法亢聖親牧師からのメッセージ

「ニコデモとイエスさまの対話」 (ヨハネ3:1~21)

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)

1、「しるしについて」
 ニコデモは、ユダヤ教の最高のエリートであるファリサイ派に属していました。大変裕福でサンヒドリンの議員でした。そのニコデモがイエスさまの所に会いに来たのです。この出来事はヨハネ福音書だけに記されています。ヨハネはこの物語を通して「しるし」というものが何であるかを伝えようとしたのです。
 私たちは何でも今あるものでしか表現することができません。宗教の世界でも同じです。ものでも、言葉でも、現在、私たちが現象的に受け止められるものでしか、表現することができないからです。その表現されているものの意味を問う時、これが「しるし」となってくるのです。
 2章では、イエスさまはカナの結婚式の中で最初の「しるし」を行われ、栄光を現されました。続いて宮きよめの物語で、イエスさまは46年かけて再建されたエルサレム神殿に対して、「私はこの神殿を3日で建てる」と言われました。これも大きな「しるし」です。ヨハネがイエスさまの「しるし」に言及する時には、単なる奇跡ではなく、その奥にある意味を問う、その奥にある永遠の意味を問う、意味で「しるし」が使われています。
現代のことばに言い換えますと、「シンボル」あるいは、「イメージ」と言うことでしょうか。そのシンボルやイメージの奥にある意味を指し示そうとしているのです。ヨハネは、ニコデモとイエスの対話を記す前に、それに対してほとんどの人が、「しるし」が与えられても、それを本当に理解することができないと記しています(2:23~25)。そうです、神殿再建の物語でも、イエスさまの弟子たちは、イエスさまが復活する時まで、その意味がわからかったと記しています。
 この物語のニコデモは、その「しるし」の世界の中で、表に現われたところだけしか分からない人物として登場しています。現実的には大変優秀な学問的にも宗教的にもエリート集団に属し、社会的にも議員として高いステータスをもっていた人です。ところが、この人が実はイエスさまが示そうとしている「しるし」の理解に非常に苦しむというのがこの箇所です。実に現代の私たち自身が生活の中で、ニコデモと同じようになっているのではないでしょうか。そういう意味でこの箇所は、理性でものごとを考えようとする現代の私たちに対して書かれたものであるように思います。

2、「ニコデモとイエスさまの対話」
 ニコデモが夜イエスの所に来て「神が共におられるのでなかったら、あなたのようなしるしは、誰も行うことはできません。」(2節)とイエスさまのみ業を賞賛しました。そのニコデモに対してイエスさまの答えは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)です。
ここに「しるし」を解くキーワードが記されています。イエスさまは、「人は、新たに生まれなければ」(3)について、「水と霊によって生まれなければ」(5)と説明しています。新たに生まれるということは、水と霊によって生きるものとなると言うことですが、ニコデモは、現象の世界、つまり私たちの日常の生活の中で捉えようとしたのです。ですから「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょう。」(4節)と言ったのです。誰もがそのように思うのではないでしょうか。
 イエスさまの答えは違っていました。「だれでも水と霊とから生まれなければ、この世界は見えない」(5節)と言うものでした。
 ヨハネ福音書では、「水」は洗礼を表します。(4章のシカルの井戸での婦人との対話では、「永遠のいのちにいたる水」とあります。)「霊」とは、ギリシア語のプニューマです。ヘブライ語では「ルアッハ」です。どちらも「風」、「息」、「魂」、「霊」という意味をもっています。私たちは洗礼によって、この風の世界、永遠の風の世界に触れたときに、この「しるし」の奥の意味を理解することができるのです。
 「肉から生まれた者は、肉である。霊から生まれた者は霊である。」(6)
 この霊と肉という分け方は、ギリシア思想の「肉と理性」と置き換えることができます。(グノーシス派が代表)。彼らは、理性は絶対に肉と関わらないという立場をとりました。しかし、ヨハネは理性を霊に置き換えたのです。私たちは肉から生まれますが、肉は必ず終わり、有限で一時的なものです。しかし、その肉の中に、神の霊が神の風が沁み込むのです。ヨハネは、肉と霊を完全に二元論的に分けるのでなく、肉をとっているものの中に、その肉が仮りにどんな悲劇的な状況の中にあったとしても、この世に生きている限り、最後の瞬間まで、永遠の息の中にある、永遠の風(霊)の中にあると理解するように導きます。
 「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(7、8節)
 ここでは、プニューマが風となっていますが、霊は思いのままに吹くと読み替えてもさしつかいないのです。
 ニコデモは、宗教家でエリートでありましたが、現象的にしかとらえることができなかったためイエスさまの勧めを受け止めることができませんでした。「霊(風)から生まれた者は皆このとおりである。」とイエスさまに言われるとニコデモは「どうして、そんなことがありえましょう。」(9節)と疑問を述べるしかなかったのです。イエスがここで示された世界は、どのような人でもその人自身が眼を永遠に向けた時に、永遠の風がその人の中に吹き込んで(霊が沁み込んでくる)ものなのです。(コリントⅡ4:18 p330)
                
 ヨハネは、肉は変えられないけれども、その肉の中に神の風が吹き込んで来る、神の風が浸透して来ると言う立場をとっているのです。またこのことは、使徒言行録2章のペンテコステの出来事につながっています。
 ヨハネ3章12~15節 このわずか4節の中に大切なことが示されています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(15節)
 蛇を上げる(民数記21章8節の引用)、この上げるは、イエスさまが十字架に上げられることと、天に上げられることとを指し示しています。
 私たちは、見えるものだけで判断しようとします。しかし本当に人を生かすものは、見える世界の奥にある、見えない世界の中の奥にあるのです。永遠のいのち、永遠の風のように。私たちは、何事も地上のもので表現しなければなりませんが、「しるし」を通して永遠の世界に眼を向けることができるのです。   

参考: 「星の王子さま」サンテクジュベリ
    Ⅰコリント12章3節 p315

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