「聖書の学びの会」2022年10月12日
法亢聖親牧師からのメッセージ
「神さまの主権と深いあわれみ」 ローマ9章14~24節
「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」(9:3)。8章まで、パウロは、イエス・キリストの贖いに基づく信仰義認を論じてきました。どちらかと言えば異邦人の救いに焦点が当てられていたように思います。9章から少し論調が変わります。パウロは、自分の同胞であるユダヤ人の救いにフォーカスを当てていきます。
ユダヤ人クリスチャンの中には、異邦人ばかり愛されて、本来選びの民である自分たちは、ないがしろにされていると感じる人たちがいたのではないかと思います。
パウロは、2節において「すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。」と語っています。「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞」であるイスラエル人が救い主イエス・キリストを拒み、十字架に架けてしまったことについて、深い心の痛みを感じるとともに、何とか、彼らの救いが成就するようにと、熱い思いを吐露しています。
パウロは、ここでイスラエルが神さまに選ばれた民であることを確認しています。「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も律法をさずけられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、また、父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アーメン。」(9:4、5)と、決して、「選びによる神のご計画」(9:11)が無効にされたわけではないことを強調します。
その上でパウロは、アブラハムの子孫が自動的にイスラエル(神さまの民)となるのではなく、「約束の子ども」(9:8)がイスラエルになるのだと主張します。
アブラハムの子イサクとイシマエル、イサクの子ヤコブとエソウの兄弟を例に挙げ、選びによる神さまのご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によると、神さまの主権を強調するのです。
しかし、神さまがどちらか一方を選ばれるのは、不公平ではないのか。一つしかない枠に、誰かが選ばれたとき、そこから漏れた者たちがそう感じてしまうのは、当然かもしれません。その疑念に対する答えが、14節から書いてあります。パウロは、神さまの選びは、決して「えこひいき」などによるものではなく、むしろ、神さまの「あわれみ」と「いつくしみ」による、と言うのです。神さまの選びは、「人間の意志や努力によるのではなく、ただ神さまのあわれみによるのである」(9:16)のです。
本来、誰一人、選ばれる資格などなく、罪のゆえに滅ぼされても何の文句も言えない者でした。しかし、神さまは、「滅びることになっている怒りの器」を、「大いなる寛容を持って耐え忍」んでくださいました(9:22)。「滅びて当然の者が、神さまの憐みによって救われたのですから、神さまの選びに文句を言える権利など、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、誰ももっていないのです。いたずらに「不公平だ」と意義を唱えることをやめ、神さまの憐みと慈しみによって、罪を赦された者として、神さまに感謝して生きていきたいと思います。私たちは、みな、神さまの「憐みの器」(9:23)として召されているのですから。
祈りましょう。
主よ、わたしは神さまのあわれみによって救われた者です。この世にあって不公平と感じることがあっても、何ら権利を主張できる資格などないことを悟らせてください。ただ、「憐みの器として」召されていることを感謝し、生きていくことができますように。
み子のみ名によって祈ります。 アーメン