「きよさと罪との内なる葛藤」 ローマ7:14~25

「聖書の学びの会」2022年9月28日

 法亢聖親牧師からのメッセージ

「きよさと罪との内なる葛藤」 ローマ7章14~25節(p241)

 「わたしは、なんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(7:24)。
 7章は、パウロの霊的格闘、内なる苦悩が吐露されています。最も端的に言い表しているのは19節の「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」と言うパウロの告白ではないかと思います。パウロは、繰り返し「善を行いたいと願っている」ことを表明しています。別の表現をすると「神の律法を喜んでいる」(7:22)というのです。これは、イエス・キリストを信じ、「それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである」(Ⅰペテロ1:9)からにほかなりません。つまり、このパウロの苦悩は、まじめな信仰者が経験する苦悩であると思います。
 パウロは、信仰者の内側に、二つの力が働いていると言います。一つは、「罪の力」、あるいは「肉の力」と言ってもよいかもしれません。17節で「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言っています。もう一つは、ここでは明確に示されていませんが、「聖霊の力」です。ガラテヤ人への手紙でははっきりと「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互いに相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」(5:17)と語られています。
 3章から6章まで、「信仰義認」と「バプテスマ」について論じてきたパウロは、7章にきて、この二つを通して信仰者として新しく歩み出したという立場的な変化に伴い、実質的な「聖化」つまり、キリストの似姿となることへの渇きが生じるということを述べているように思います。
 イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、バプテスマを受け、信仰生活を送るうちに、律法に示されて、神の標準に届かない自分の姿を痛感するようになるのです。「きよくなりたい」、「よい行いをしたい」という御霊が与えてくれる願いと、それをじゃまする肉の力の間で信仰者は苦悩します。
 これは、人が霊的に成長するために通過しなければならない「成長のための痛み」なのかもしれません。旧約聖書の創世記に出てくるヤコブは、ぺニエルにおいて、夜が明けるまで、神さまと祈りの格闘をしました(創世記32:22~32/p45)。以前、自分が兄エソウの祝福を奪い取ってしまったことに対する復讐を恐れ、どうにもならなくなった時、自分を「押しのける者」と呼ばせるほど頑固な(創世記27:36/p35)自我が砕かれるまで、ヤコブは祈りによって神さまと格闘をしたのです。「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。」と、問題の解決を神さまに求めた時、主は、ついに勝利を与えて下さいました。

 神さまは、「だれがこの死の体から、私を救い出してくれるでしょうか」との、私たちの、悲痛な叫び声をお聞きになり、内面の葛藤から救い出してくださいます。パウロは、7章25節で「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」とキリストによる勝利を高らかに宣言しています。十字架と復活で、罪と死に打ち勝たれた、キリストによる勝利です。

 祈りましょう。
 天の父なる神さま 
 善を行う力の弱い私の魂は、神さまに向かって叫びます。どうか、みじめな者の魂を、聖霊によって清め、キリストの勝利を得させてください。
                     み子のみ名によって祈ります。 アーメン
参考
1.「肉の働き」 ガラテヤ5:19~21
2.「御霊の実」 ガラテヤ5:22~24
3.イスラエル:部族同盟の名称が、国家の名称となった。
「イスラエル」の意味 「神(エール)が支配する」つまり神政政治を意味する。そのほか、「神が勝つ」「神と競う」「神に固執する」等がある。
「ヤコブ」の意味 「かかとをつかむ者」(創世記25:26)「狡猾な者」
 創世記のヤコブ物語は“ヤコブがイスラエルへと変えられる(成長する)”物語と言える。

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