深谷教会聖霊降臨節第17主日礼拝2022年9月25日
司会:野田治三郎兄
聖書:マタイによる福音書26章6~13節
説教:「言葉ではなく心を」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-58、567
奏楽:野田周平兄
説教題:「言葉ではなく心を」 マタイによる福音書26章6節~13節 法亢聖親牧師
「さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」(マタイ26:6,7)
本日の聖書の箇所は、重い皮膚病を患っていたシモンの家で、食卓に着いておられるイエスさまに、高価な香油を注いだ女性の物語です。この物語は、「イエスは言われた。『あなた方も知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引渡される。』」(26:1,2)と語られた当日の出来事です。
この女性が注いだ香油は、平行記事のマルコ福音書ではナルドの香油で300デナリオン(約300万円)以上もするものであったと記されています(マルコ14:3、5)。その高価な香油をイエスさまにすべて注いだこの女性の行為は、どのような意味があるというのでしょうか。また、どうしてそのような行為をしたのでしょうか。
本日の聖書の箇所では、「一人の女が」とあるだけで、この女性の名前は記されていませんが、ヨハネ福音書11章2節には、この女性はマルタとマリアの姉妹の妹マリアであるとはっきりと記されています。
この出来事があったのは、イエスさま一行がエルサレムに上る時に定宿としていたベタニアのらい病の人シモンの家でした。マルタとマリアは、イエスさま一行をいつも心からもてなしていました。それは、イエスさまが父親のシモンのらい病(ハンセン氏病)を癒したことに起因しているのだと思います。それだけでなく彼女たち自身も、イエスさまに出会い、自分たちの人生を希望と喜びに満ちたものに変えていただいた経験をもっており、イエスさまを心から愛していたのです。
その彼女たちは、弟子たちと共にイエスさまが二日後「十字架につけられるために引渡される」と言うお言葉を聞き、いても立ってもいられず、イエスさまに最上の香油を注いだのだと思います。自分たちの人生を変えてくださったお方に自分たちの持っている最高の宝物をおささげしたいと思ったのです。それを実行したのがマリアだったのです。
「はっきり言っておく。世界中どこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(26:13)とイエスさまがおっしゃったように、この女性(マリア)のした行為はイエスさまの喜ばれるところとなったのです。
それでは、この女性(マリア)のした行為はどういう意味があったのでしょうか。
第一に彼女はイエスさまの頭に香油を注ぐという行為をしました。このことは古代の中近東世界では、特別な行為とされてきたもので、特別な役割や任務への選びを意味していました。王はその載冠式(たいかんしき)の時に油を司祭から注がれました。預言者にも油が注がれました(サムエル記上10:1,16:13)。その意味からしますとこの女性は、知らずにイエスさまを王とする行為をしたことになります。何とキリストとは、ヘブライ語でメシア「油注がれた者」と言う意味があるのです。この女性は、期せずしてイエスさまはキリスト(メシア)であると告白したことになるのです。
そして、もう一つはイエスさまご自身が「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」(26:12)と語られたように、彼女はあらかじめイエスさまの体に香油を注ぎイエスさまの葬りの備えをしたのです。当時は、人が召されると遺体は、香油を塗られ白い布でくるまれて墓に埋葬されました。それをこの女性があらかじめしてくれたのだとイエスさまは言われたのです。この出来事は、イエスさまが十字架にかけられる4日ほど前のことだったのです。この時は、この女性の行為の真意をこの女性本人も弟子たちも知らなかったのではないでしょうか。しかし、イエスさまは彼女の心・純粋な信仰をしっかりと受け止めて、ご自分の計画の中で意味付けされておられたのです。
この時、弟子たちはこの女性がしたことに対して「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(26:8,9)と言って憤慨しました。弟子たちのこの言葉は、間違ってはいません。むしろ立派なことを言っているのです。問題は、その人の本当の心は何処にあるかと言うことです。弟子たちは、正当なことを語ったのだと思います。イエスさまは、弟子たちに「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる。わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」(26:10~12)と言われました。イエスさまは、弟子たちの優等生的な言葉を聞きながら、その真理を否定しないで、それでいてそこに彼らの心がないことを見破っておられたのです。そして彼女の深い愛情、真実な心(信仰)を受け取られたのです。
「人は、うわべを見るが、主(神)は心によって見られる」(サムエル記上16:7)とある通りです。
この女性の行為は、イエスさまによって救われた者が、イエスさまに従って生きる献身の姿を象徴していると思います。
讃美歌21の567番に「♪ナルドの香油注いで 主に仕えたマリアを おもいおこし わたしの愛ささげます 主イエスよ♪」とあるように、私たちも神さまの愛に、愛をもって主からいただいている命と賜物を心からささげて従っていきたいものです。
主イエスに従うとは、主ご自身の恵みに心から感動し、感謝の応答としておこなう行為です。自分の最高の賜物、宝物をおささげしてもイエスさまの十字架の救いと贖いの血とには、及びませんが、自分にできる最高のものをおささげしつつ従っていきたいものです。
貧しいやもめのレプタ二枚(200円)を喜ばれる神さまに自分のできる精一杯をささげつつ従って参りましょう。(ルカ21:1~4)。