「驚くべき主のみ業」 マタイによる福音書21:33~46

聖霊降臨節第14主日礼拝2022年9月4日
司会:渡辺清美姉
聖書:マタイによる福音書21章33~46節
説教:「驚くべき主のみ業」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-446、451

説教題 「驚くベき主のみ業」 マタイによる福音書21章33節~46節      法亢聖親牧師
     
 イエスさまは、次のようなぶどう園と農夫たちのたとえを語られました。
「あるぶどう園の主人がぶどう園を農夫たちに託して旅に出ました。収穫の時期になったので収穫の収益を受け取るために僕(しもべ)たちを遣わしたところ、農夫たちは僕を次々と袋叩きにしたり、殺したりしてしまったのです。とうとう主人は、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、愛する息子を遣わしました。しかし農夫たちは、かえって『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう』と、彼を捕まえ、ぶどう園の外に放り出し殺してしまいました。」(21:33~39)
 このたとえのぶどう園と農夫は一体何を意味しているのでしょうか。「ぶどう園」を「この世」と解することができますし、「農夫」は、「ぶどう園(この世)を任された私たち人類」と言うように解することができます。このように解釈しますとこのぶどう園と農夫のたとえが私たちと深く関係していることに気づかされます(イザヤ5:1~7)。
 私たちの神さまは、天地・万物の造り主です。私たちはその神さまがお造りになられた世界を、ぶどう園の農夫たちのように委託され管理しているにすぎないのです。主人のために働くのです。ところが、このたとえの農夫たちは、そのぶどう園を自分たちのものにしようとしました。あたかもぶどう園が自分たちのもののように思い、考えるようになっていたのです。そこに罪が潜んでいます。神さまのものを神さまにお返ししないことが根本的な罪なのです。
 私たちはこの世界の主人ではありません。私たちは、本当の主人に従って生きる時、人間の分をわきまえて生きる時、最も人間らしく生きることができるのです。にもかかわらず私たちは、自分が、あるいは自分たち人間が主人になろうとするのです。
 「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」(21:40)
 イエスさまは、このようにこのたとえの結論を聞き手である私たちに考えさせます。
 このたとえを他人事として聞いているうちは、この農夫たちはとんでもない輩(やから)だなどと他人事として聞くことができます。
 ところがイエスさまは、「主人は、その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない」(41)と言われました。聞いていた人々は、特に律法学者やファリサイ派の人々は、それが自分たちであることを悟ると、主人である神さまの独り子のイエスさまを捕えて殺す思いを固めたのです。                 
 私たちはこの農夫、つまりイエスさまのご在世当時のイエスさまを十字架につけて殺そうとしたファリサイ派や律法学者のように直接人殺しをしてはいませんが、この世というぶどう園であたかも主人であるかのように振る舞っていないでしょうか。
 本当の主人である神さまのご意志を聞こうとせず、自分たちの都合のよい世界を望んでいるのではないでしょうか。他者と共に歩む道を選ぼうとしないで、自分にとって都合の良い世界を求めているのです。国は国で自国のことだけを考えて他の国のことを考えようとはしないのが現実です。個人であれ、国家であれ自分が主人になろうとするときさまざまな摩擦が引き起こされるのです。本当の主人である創造主である神さまを見失った世界は、愛(アガペー)の秩序を失い天地創造以前の混沌の闇の世界に戻っていってしまうのではないでしょうか。
 その罪への傾斜に歯止めをかけたのが、イエスさまの十字架です。神さまは、私たちを裁く代わりにご自身の御子を生贄(いけにえ)としてその罪と咎(とが)を負わせてくださったのです。相手に責任や重荷を負わせる生き方をやめさせる切り札としてイエスさまをこの世に遣わされたのです。仕え合い、与え合い、重荷を負い合い、ゆるし合う生き方こそ人類が生き延びていくための唯一の道です。「アガペー(神の愛)」の道です。この神さまの愛(アガペー)の道を成就するために神の御子イエス・キリストは十字架を負われたのです。イエスさまが開かれた天国に通じる唯一の道、アガペーの道を自分の十字架(使命)を背負って歩んでいきたいものです。これこそ神の子とされた者の生き方であり、真の主人である神さまに従う道です。
 イエスさまは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」(詩編118:22)と詩編を引用されました。これは、主がなさったことで、わたしたちの目から見て捨てられたものが、実は建築に最も大事な基礎石になったということです。このことは、祭司長やイスラエルの民に殺されるイエス・キリストが、救いの御業の基礎となると言うことを暗示しているのではないでしょうか。
 ぶどう園のたとえでうすうす律法学者やファリサイ派の人々は、ぶどう園の主人が遣わした僕は旧約の世界の預言者たちで農夫は自分たちではないかと思っていましたが、この一言(詩編118:22)で農夫は自分たちのことを言っていると確信し怒り、イエスさまを殺すことを決めたのです。こうしてイエスさまは、当時の為政者たちを敵に回されたのです。
 しかしこの御言葉は、そうした次元を超えて、驚くべき福音を語っています。イエスさまが引用された詩編の続きに、はっとする言葉があります。「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。・・祝福あれ、主のみ名によって来る人に。わたしたち主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。・・あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。」(118:24~28)
 主の驚くべき計画は、十字架で終わるのではなく、喜びの復活へと通じているのです。
 そこで私たちは『跡取り息子』同様、神の国へ迎え入れられるべく約束されていることを感謝し、喜びたいと思います。

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