「平和のあいさつ」マタイによる福音書10:5~15

聖霊降臨節第13主日礼拝2022年8月28日
司会:渡辺清美姉
聖書:マタイによる福音書10章5節~15節
説教:「平和のあいさつ」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-494、505

          「平和のあいさつ」    マタイによる福音書10章5節~15節
 
 本日の聖書の箇所は、イエスさまが12人の弟子たちを宣教に遣わすにあたっての注意事項を語られたところです。
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(10:5、6)
 この言葉の表面だけを見ると、イエスさまは、異邦人伝道ではなくユダヤ人伝道をしなさいと受けとれますがそうではないのです。イエスさまは、3年間の公生涯の中でいつもサマリア人を心に留められ、わざわざサマリア人の地を通ってエルサレムに行くことが度々ありました。
 ヨハネ福音書の4章に、イエスさまが、サマリア人のスカルの女性に、「エルサレム神殿だけでなくサマリアのゲリジム山の神殿でも、そして世界中どこででも神さまを礼拝する時が来る(4:21)、もうその時が来ている(4:28)」と、その女性を通してサマリア人伝道をされたことが詳しく記されています。
 そればかりではなく、復活されたイエスさまは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)と言われました。実際、聖霊降臨後、弟子たちは使徒とされイスラエルの民だけでなく、異邦人伝道に携わっていきます(使徒言行録2:1~13)。
本日の聖書の箇所は、イエスさまが12人の弟子を選び公生涯の伝道を本格的に始められた時でもあり、いきなり異邦人伝道にとりかかる前に、まずはイスラエルの民に対する伝道から始めるようにと示唆されたものと思います。神さまのご計画には、すべて時があるのです。
 宣教の業は、まず内側をしっかりと固めてから宣教の業を外へと広めて行くことが大切です。内側の核ができていないと外へ広げていこうとすると崩壊の危険性があるということです。今なすべきことに集中する時、これからなすべきことも見えてくることと思います。
 10章8節には、「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」との宣教命令の内容が記されています。現代のように医学が進んでいなかった時代では、キリスト教会だけでなく宗教が癒しを担当することが多くありました。特に悪魔祓いとか疫病退散などがそうです。
 医学や薬学などが進歩した現代では、肉体や神経の癒しは医学、魂や心の救いは宗教(キリスト教)と言うように分業が進んでいます。だが、私たちのキリスト教会では病気の方々のために主のお癒しを祈ります。それは、主の癒しの御業は医者や薬などあらゆるものを通しても働くことを私たちは知っているからです。
 8節の「悪霊を追い払いなさい」と言う表現ですが、私たちは、イエス・キリストのなさった御業を個人的内面的にとらえがちですが、イエスさまの御業は個人的な事柄にとどまらず、社会的広がりを持つことを告げているように思います。
 私たちの誰もが平和を願っているのに、この世界に戦争が絶えないのは、悪霊が私たちを支配し、世界全体が「悪霊」の一時的支配下に置かれているからだと言うことができるのではないでしょうか。聖書の伝える「悪霊」とは、父なる神さまから人々を引き離そうとする力のことです。悪霊は、人類を滅びの方へと、私たちがどうすることもできないような力で引きずり込もうとします。そうした力から私たちを解放するためにイエスさまは来られたのです。
 そして弟子たちにも悪霊を追い出す力を与えて、「悪霊を追い出しなさい」と言われました。はじめから弟子たちを召し集められたのもそのためだったのです。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(10:19)と記されている通りです。私たちもこのことを、深く心に留めたいと思います。
 イエスさまは、弟子たちに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(8節)と「(何も持ってゆくな)働くものが食べ物を受けるのは当然である」(10節)ということを語られています。一見反対のことを言っているように思えますが、伝道者の生活を言い当てているように思います。伝道者には、「主のみ言葉と御業を決して金儲けの手段にしてはいけない」と言う戒めと、「それによって生活の糧を得ることは当然のこととしてよい」と言う伝道者への励ましと補償が同時に与えられています。
 さて、イエスさまの12弟子たちへの宣教命令の最後の部分です。「その家に入ったら『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたに帰って来る」(12,13。)
「平和があるように」とは、ユダヤの挨拶で「シャローム」です。このユダヤの挨拶は、とても素晴らしい挨拶だと思います。どんな相手でも、とにかく「平和があるように」と言う挨拶をする、そのような心で向き合うことです。相手がそれを受けるにふさわしければ、その「平和」は相手にとどまりますし、ふさわしくなければ自分に帰って来る。いずれにしても、そこで告げられた「平和」は消えてなくなることはないということです。
 イザヤ書に「わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」と言う父なる神さまの言葉があり、この言葉がイエスさまの本日のみ言葉の背景にあるのです。その意味から私たちは、この言葉「平和があるように」を日常生活の中で使っていきたいものです。
報復が報復を呼び、一層頑なになってロシアのウクライナ侵攻がどんどん長引いている現在の世界にあって、どのような相手に対しても平和の挨拶をもって望むということは、大事なことであると思います。

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