「神様の可能性を信じて」 マタイによる福音書19:23~30

深谷教会聖霊降臨節主日礼拝2022年8月21日
司会:渡辺清美姉
聖書:マタイによる福音書19章23~30節
説教:「神様の可能性を信じて」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-456

「神さまの可能性を信じて」   法亢聖親牧師
                     マタイによる福音書19章23節~30節

「金持ちの青年が悲しみながら立ち去った後、主イエスは弟子たちに言われました。『金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」(マタイ19:23,24)
 このイエスさまのお言葉は、当時の常識をくつがえすセンセーショナルな言葉でした。イスラエルでは一般的に「富は神さまからの祝福。正しい行いに対する神さまからの報い」と考えられていたからです。逆にいえば、「貧さも神さまからの報いで、本人か先祖が悪いことをしたから貧しいのだ」と考えられていたのです。
 金持ちはたくさん捧げものをすることができ天国に近く、それができない貧しい自分たちは天の国から遠いというように考えていました、イエスさまの「金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るより難しい」とのお言葉に、金持ちたちだけでなく貧しい人たちもびっくりしたのです。弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」(マタイ19:25)と驚いたのは、無理からぬことです。
イエスさまは、あえて金持ちが天国に入るのは難しいとおっしゃいました。ここには、信仰の逆説があります。イエスさまは、金持ちは救われないと言ってはいないのです。イエスさまは、金持ちは自分に自信を持ち、自分の持ち物でなんでもできると考えているから、自分の持ち物により頼む生き方を捨てることができない金持ちたちは天国から遠いと言われたのです。イエスさまは、当時のユダヤの人々の律法主義的な固定概念を打ち砕くために、「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」というたとえを用いて真に神の国に入る道をお示しになられたのです。 
その道とは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架(使命)を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24,25)と語られた十字架の道です。イエスさまは、すべてを神さまに委ねて信仰者としてイエスさまが開かれた十字架の道、天国へと通じる唯一の道を歩むように招かれたのです。
 その道は大変困難な道でもあります。「人間にできることではないが、神はなんでもできる」(マタイ19:26)というこの御言葉に本日の聖句の真理を解く鍵があります。
 神さまの可能性は、人間的可能性を広げると言うものではなく、むしろ人間的可能性が閉じてしまうところから始まるのだということです。それは人間の力によるものではなく、神さまの御業がよくわかるようになるためなのです。
 創世記1章に「神さまは無から有を造られた」と記されているように、聖書の一貫したメッセージは、「人間には、できないことでも神さまにはできないことはない」と言うことです。
 イエスさまの母マリアは、受胎告知を受けた時、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と戸惑い天使に言いました。すると天使ガブリエルは、「神にできないことは何一つありません」(ルカ1:37)とマリアに告げました。
御子イエス・キリストに従って生きることは、らくだが針の穴を通り抜けるより難しいことだが、不可能を可能にしてくださる神さまを信じて従っていけば可能となるのです。
 だがペトロは26節のイエスさまの言葉を正しく理解せず、イエスさまのもとから立ち去った金持ちの青年とイエスさまに従っている自分たちとを比較して胸を張って言いました。「このとおりわたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるでしょうか」(19:27)と。ところが、弟子たちは、イエスさまが十字架につけられる直前に逃げ去ってしまいます。
イエスさまは、本日のらくだが針の穴を通り抜けるのは難しいというお話をしている時、既に弟子たちも自分のもとから立ち去ることを見据えておられたのです。その上で、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、12の座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる」(19:28)。とおっしゃられたのです。
 イエスさまはこのように弟子たちが裏切った後、再び集められ使徒として立つことを見据え、本日のらくだと針の穴のたとえを語れたのです。
イエスさまに従って生きる上で、金持ちであるとか、貧乏であるとかは、問題ではないのです。29節でイエスさまは人間にはできないこと、不可能なことを弟子たちに求めておられます。七つの大切なもの「家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑」を「わたしの名のために捨てた者は皆、その百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と約束されました。
 私たちには、このような大切なもの全てを捨てて従うこと自体不可能なことです。しかし、イエスさまが示された神さまの可能性に心をとめたいと思います。金持ちも、貧しい者もそれぞれの仕方で、主イエス・キリストに従う道へと招かれているのです。
キリスト教の迫害者であり後に使徒とされたパウロが、「わたしたちを強めて下さる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)と言っています。しかも子供の頃から救われ従っているとか、晩年になってから救われたとかも問題ではないと主イエスは言われます。
 「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(19:30)と。この神さまの可能性を信じて、歩んでいきたいものです。

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