「小さな者を愛する」 マタイによる福音書18:6~14

聖霊降臨節第11主日礼拝2022年8月14日
聖書:マタイによる福音書18章6~14節
説教:「小さい者を愛する」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-390

説教題 「小さな者を愛する」              マタイ18章6節~14節     

 マタイ福音書18章6節と10節で「小さな者」と呼んでいるのは誰のことでしょうか。その答えは、マタイ18章12節~14節にあります。また、平行記事であるルカ福音書 15章1節~7節の「迷い出た羊」のたとえの中にあります。
 本日の聖書の箇所と同じ「迷える羊のたとえ」が記されているルカ福音書では、「徴税人や罪人」たちがイエスさまの話を聞こうとやってきました。そこにファリサイ派や律法学者たちがやって来て「この人(イエスさま)は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と裁きはじめたので、イエスさまは「迷える羊のたとえ」を語られたとあります。マタイでは、探し出され、助け出された迷える羊は「小さな者」となっていますが、ルカでは、「悔い改めた一人の罪人」となっています。そしてその人が探し出される(救われる)と「喜びが天にある」(ルカ15:7)と記しています。
 ユダヤ社会の中においてファイサイ派の人とか律法学者は、律法をよく知っており、それを生活の中で守っている人です。そのことで、神さまに義とされていると自認している人です。それに対して「徴税人や罪人」と言うのは、生活の中で律法などを守ることができない人です。そのような人は、神さまから見捨てられていると思われていた人で、神の国に入ることができないとされていたのです。しかし、そのような人々がイエスさまの周りに集まってきたのです。イエスさまは、徴税人や遊女、そして罪人とみなされていた異邦人も神の国へ招かれたのです。それは当時考えられないことでした。律法を守れる人は救われる価値があり、守れない人は救われる価値がないということがユダヤ社会の掟であったからです。
 しかし、当時のユダヤ社会だけでなく、今でも同じような現実があります。この世では、能力や富がある者は価値があり、何も持たない者は価値がないという目に見えない法則・掟が人々を縛り付けているのです。
 この世は、人が持っている能力や富を見ます。それらが役立てば重宝がられますし、役立たなければ「能無し」「役立たず」と排除されます。ですから私たちは必死に能力を身に着け、富を求め、自分は役に立つ人間だとアピールするのです。自分の持っているものの価値と自分自身の価値は違いますが、この世で求められることは自分が「持っているもの」です。自然に私たち自身も世の見方になじみ巻き込まれていきます。
 自分が持っているものの価値を高めることに、必死になっている私たちが、本来の自分を取り戻すためには、どうしたらよいのでしょうか。
本来の自分を取り戻すためには、「私たちは神の被造物」であるという原点に立ち返ることです。神さまに出会い、自分は神さまに造られたものであると知ること(自覚すること)です。 旧約聖書に次のような二つの聖句があります。
 「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は今こう言われる。・・・わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ書43:1、4)
 「わたしに聞け、ヤコブの家よ、・・・あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:3,4)
 神さまの言葉が自分に語られた言葉だと分かった時、私たちは初めて自分が持っているものに対する眼差しではなく、自分自身に対する神さまの眼差し、私たちを救おうとする愛の眼差しを知るのです。この世が私たちを造ったのではなく、神さまが私たちを造られたのです。
神さまには失敗はありません。神さまから見て失敗作などないのです。すべての人間に、神さまが与えてくださった使命があるのです。私たちはその使命を果たすことによって自分になっていくのです。なぜなら、神さまが一番私たちのことをご存じだからです。そのことを知り認めることが、それまでの自分が砕かれて新しい自分になるのです。それが聖書の言うところの「悔い改め」です。生き方の方向転換で、神さまの元に立ち返り神さまに従って生きるということです。それまでは、この世の法則・掟に従い、自分のために生きていましたが、これからは神さまに従い神さまのために生きるということです。そうすることで結果的に、「本当の自分のために生きる」ことになるのです。
 「迷える羊」とは、真の救い主イエス・キリストから離れて生きている人、神さまの目から見たらこの世で迷っている人の事です。「小さな者」とは、文字通り落ちこぼれた人、小さくされ差別されている人のことでありましょう。そして、私たち自身のことでもあるのではないでしょうか。このたとえでイエスさまが羊飼いであるということは、山や野原に残された99匹は、イエスさまの守りの中にいる人々と言えます。なぜならば、旧約聖書でも新約聖書でも、山は神さまがおられ会える場所を指します。野原は牧草豊かな牧場を指しています。天の国の先駆けである教会を指しているからです。そこから離れた人やイエスさまのことを知らないでこの世の法則・掟の中で苦しんでいる人を迷える羊、あるいは小さな者(小さくされている人)と呼んでいるように思います。しかし、イエスさまは、命を懸けて十字架の死をもって、迷える羊、小さい者を探し求めて救って下さるのです。ここに愛があります。私たち一人一人を愛し救い、神のご支配のうちに導き入れてくださるのです。まことの羊飼いであるイエスさまは、見つけるまで探し求めてくださるお方です。100匹を十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)で愛するのではなく、どの羊も一匹一匹を愛してくださるのです。
 ルカ福音書に「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15:10)とあります。私たちの神さまは、迷える羊、小さな者、直接的には、失敗し人生に挫折した人、落ちこぼれた人、この世において差別され、虐げられ、排除されている人々を愛してやまないお方です。この小さい者を愛し、迷える羊を愛し、救ってくださる主に従って参りましょう。

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