「悲しんでいる人々は幸い」 マタイによる福音書5章1~12節

深谷教会聖霊降臨節第8主日礼拝2022年7月24日
司会:廣前成子姉
聖書:マタイによる福音書5章1~12節
説教:「悲しんでいる人々は幸い」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-358、451
奏楽:野田治三郎兄

説教題 「悲しんでいる人々は幸い」            マタイ5章1節~12節     

 イエスさまの山上の説教の「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)というのは、本当なのでしょうか。悲しんでいる時に慰められるとうれしいものです。しかし、悲しみの原因となったことがなかった方が「幸せ」であったと思います。
 本日のイエスさまの言葉も、先日学んだ「心の貧しい人々は幸いである」と言う言葉と同じように、私たちの常識、知識や経験を超えた言葉であることが分かります。私たちには語ることのできない言葉です。 
 神さまの子としてこの世に来られたイエスさまだからこそ「悲しむ人々は幸いである」と言える真実なことばです。
 イエスさまは、だれよりも大きな悲しみと苦しみを経験されました。そして、悲しみと苦しみの内に死なれました。讃美歌一編の532番の2節の歌詞を口語に訳すと次のようになります。「主イエスの受けたことのないような試練、主イエスの知らない悲しみというものはこの世には存在しない。どこへ行っても主イエスの通った跡がある」となります。すべての悲しみを経験し知っておられるイエスさまですから「悲しみ」を「幸い」と言えるのです。私たちは、「悲しみ」を経験し、その「悲しみ」によって、イエスさまに真実に出会う時、初めて幸いと言えるのではないでしょうか。
 「慰める」と訳されているギリシア語は、パラカレインと言う言葉です。本来の意味は、「自分のかたわらに呼び寄せる」と言う意味の言葉です。そこから、「助ける」「励ます」「慰める」と言う言葉として用いられるようになりました。ですから、「悲しむものが慰められる」とは、「だれかの傍らに立って、助け、慰め、励ましてくれる」と言うことです。一人では、とても悲しみを乗り越えることができなくても、傍らに立って勇気づけてくれる方がいるという約束です。そして、寄り添い傍らに立ってくださるのは、神さまであると言ってもよいと思いますし、父なる神さまをこの世に来て、生きて父なる神さまを現されたイエスさまであると言ってもよいと思います。イエス・キリストを神さまと等しい方であると信じる者にとっては同じことです。しかし、さらに突き詰めて言えば、聖霊と言うことになります。今日、私たちのそばに立って、私たちを助け、励まし、慰めてくださるイエスさま、それこそが聖霊(慰め主、助け主)なのです。
 2000年前にユダヤの国で生きられたイエスさまと、今日、日本で生きている私たちとを結びつけてくださるのが聖霊です。こうした現実のことを、キリスト教会では、父とみ子と聖霊は、一人なる神である、「三位一体の神」と呼んできたのです。
 ヨハネ福音書を書いたヨハネは、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(14:16,17)と記しています。「弁護者」と言う言葉(パラクレートス)は、先の「慰められる」(パラカレイン)からできた言葉です。イエスさまは、「父なる神さまは、わたしの代わりに助け主、慰め主、弁護者(パラクレートス)を遣わされる。」とおっしゃいました。それが聖霊です。その聖霊を通して、永遠にあなた方と共にいて下さると言われたのです。そうおっしゃったイエスさまは、十字架におかかりになられ、三日目によみがえられ、この日をイースターと呼び祝います。復活の日から40日間弟子たちや多くの人々に現われ、40日目に天に昇られ、神さまの力の象徴である右に座されました。そして10日後、五旬節の日に聖霊となられ弟子たち一人一人の上におくだりになられました。その日をお祝いするのがペンテコステ(聖霊降臨日)なのです。
 イエスさまは、先のヨハネ福音書のみ言葉のすぐ後で、「わたしは、あなたがたをみなしごとはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)と言われました。このみ言葉を現代の言葉に言い換えますと「わたしは、あなたがたをひとりぼっちにしない。」となります。このような分かりやすい言い方で「聖霊を遣わす」と言う約束を具体的に示されました。つまり、「肉体をもったわたしは去って行っても、聖霊となって戻って来て、ずっとあなたがたと共にいるよ」、「あなたがたをひとりぼっちにはしないよ」と言われたのです。私たちは、今朝も礼拝の中で信仰告白を告白しました。その中に「我は聖霊を信ず」と告白しました。カナダ合同教会の新信仰告白は、その「我は聖霊を信ず」を現代の私たちにぴったりくる信仰告白に直しました。カナダ合同教会の新信仰告白のタイトルがWe are not alone(わたしたちは一人ではありません)です。この新信仰告白をとなえる時、まず牧師が「キリスト教の信仰を現代的表現で共に唱えましょう。」と会衆に語り、「わたしたちは一人ではありません。わたしたちは神の世界に生きています。」と導き、その後、続けて牧師と会衆で心を一つにして信仰告白を唱えます。「・・・・わたしたちの生と死、そして死を超えた生において、神はわたしたちと共におられます。わたしたちは一人ではありません。」
 この終わりの言葉は、私たちが伝統的に「われらは聖霊を信ず」と告白してきたことを現代の言葉に言い換えたものです。聖霊を信じるとは、神さまが昔と変わらず、今も私たちと共にいて下さると信じるということ、ひいては私たちがどんな時にあっても、ひとりぼっちではないということが分かることです。
 この約束、この慰めを受けた私たち、一人ぼっちではないと知った私たちは、そのことをほかの人々にも伝えなければならないのです。伝道とは、イエスさまを押し売りするのではなく、むしろ私たちは一人ぼっちではない事実を通して、今も神さまは働いておられることを伝えることです。ひとりぼっちであると感じている人に向かっては、言葉よりもまず、その人の傍らに立つことです。イエスさまは、聖霊となられて私たちの内に働き私たちを慰め、励まし、助けて下さると共に、私たちを通して一人ぼっちの人の傍らに立って下さるのです。

★わたしたちは一人ではありません(We are not alone) (カナダ合同教会新信仰告白文)

「わたしたちは一人ではありません。わたしたちは神の世界に生きています。
わたしたちは、世界を創造され、その創造のみ業を続けられている神を信じます。
この世と和解し、新しくされるために、イエスにおいてこの世においでになり、
言葉を肉体とされた神を信じます。
聖霊によって私たちや他の人々に働かれている神を信じます。
わたしたちは神を信頼します。
わたしたちはコミュニティとなるように招かれています。
神が、いま、ここにおられることを祝い、神に造られたものとして互いを尊重し、
他者を愛し、他者に仕え、正義を求め、
悪に抵抗するために、
十字架に釘(くぎ)づけられ、復活されたイエスを、
わたしたちの裁きでもあり、希望でもあるイエスを宣べ伝えるために。
わたしたちの生と死、そして死を超えた生において、
神はわたしたちと共におられます。
わたしたちは一人ではありません。神に感謝します。ア~メン」

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