「心の貧しい人々は幸い」マタイによる福音書5:1~12

谷教会聖霊降臨節第6主日礼拝2022年7月10日 
司会:渡辺清美姉 
聖書:マタイによる福音書5章1~12節
説教:「心の貧しい人々は幸い」 
    法亢聖親牧師  
讃美歌:21-346、402  
奏楽:小野千恵子姉

説教題 「心の貧しい人々は幸い」              マタイ5章1節~3節     

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)

 マタイ福音書の5章から7章は、「山上の説教」と呼ばれ、イエス・キリストのいろいろな教えが記されています。山上の説教は、本気でキリストに従っていこうとするすべての人に向けられたみ言葉であると思います。7章28節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とありますように、弟子たちの背後に多くの群衆がいたことがうかがえしれます。今私たちもイエスさまの山上の説教の聴衆の一人としてこの礼拝に招かれているのです。
 イエスさまが最初に祝福されたのは、「心の貧しい人々」です。「心の貧しい人々」とはどのような人でしょうか。日本語の「心の貧しい人」ということばからのイメージでは、「心の貧弱な人」、「心の狭い人」、「お金や物に執着している人」と言ったところでしょうか。しかし、イエスさまが言おうとされているのは、そういう意味ではありません。では「謙遜な人」「無欲な人」を指しているのでしょうか。謙遜で、無欲な人が祝福されるのであれば、納得がいくような気もしますが、そうではないのです。もっと深いドロドロとしたものです。
マタイ福音書では、「心の貧しい人々は、幸いである」となっているのでつい精神的なものと考えがちですが、ルカ福音書の平行記事では、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである」(6:20)と記されています。心の貧しいとは、単に価値観の問題ではなく徹底的に身も心も空っぽになっている状態を指しているのだと思います。直接的には、単に財産も地位も権利も権限も何もない貧しい人を心に留めておられたと思います。
 ある神学者が次のように言っています。「山上の説教の第一の教えの『心の貧しい人々』とは、物質的な貧しさに加えて、自分自身にすら何も期待できなくなっている人々のことである」と。
 「幸い」とは、自分の内側には何も頼りにするものがない、何も誇りにするものがない、生きがいもない、空虚の中に閉じ込められている状態です。私たちの常識からすれば、幸せどころか、このような人は、不幸であると言うしかありません。しかし、イエスさまは、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉を真実な言葉として語れました。イエスさまご自身がそうした人の所へ近づいて来てくださるからです。そのような人の心にこそ神の言葉は入って来ます。
 イエスさまは、「わたしはあなたの貧しさを知っている。その貧しさをそのままにはしておかない。この世の富ではなく、もっと真実なもので、満たしてあげよう」と語られておられるのです。と言うことは、この山上の説教の第一の教えは、イエスさまの約束の言葉です。
私たちが満ち足りている時には、自己完結しているように思っているのでなかなか神さまの言葉は入ってきません。そういう時は、この世的には幸せに見えるかもしれませんが、かえって不幸なのかもしれません。
 20世紀最大の神学者と言われたカール・バルトは、「信仰とは、空洞である」と言っています。ちょうど、真空状態に空気がなだれ込むように、また、水が高い所から低い所へ流れ落ちるように、心が空っぽになっているところへこそ、神さまの言葉は入って来るのです。しかし、本当は、誰もが「心が貧しい」のだと思います。それに気づかないだけです。
 私たちは自己完結し得ない存在です。満ち足りていると言ってもそれが神さまによる豊かさでなければ、いつかはそのメッキははがされます。なぜなら死ぬときには、すべてをはがされて、死んでいかなければならいからです。
 中世の修道院では、「メメント・モリ(汝、死ぬべきことを覚えよ)」と言う挨拶をしたそうです。「おはよう」、「こんにちは」ではなく、「あなたはいつか死にますよ」「そういうあなたもですよ」と言う具合に。人は誰一人例外なくいつかは死ぬ時を迎えます。これは真実です。私たちは普段は、そのようなことを考えないで生活しています。しかし、私たちの幸福がそのことを抜きにして成り立っているとしたなら、やがて崩れて行きます。そのことを中世の修道士たちは、忘れないでいようとしたのです。
 イエスさまは、私たちの貧しさを顧(かえり)みて、私たちの貧しさの中に入って来てくださったのです。イエスさまご自身徹底的に貧しくなる道をお取りになられました。枕するところもなく、財産もありませんでした。そして、最後には十字架におかかりになられました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです」(Ⅱコリント8:9)。私たちも自分の貧しさに気づき、そこに入って来てくださる方に心を開いていきましょう。その時にイエスさまは、「天の国はあなた方のものである」と約束してくださることを覚えたいものです(ヤコブ2:5)。

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