「聖書の学びの会」2022年7月6日
法亢聖親牧師からのメッセージ
「人生の土台は神さまとの平和」ローマ書の学びパート5 ローマ5章1~11節
1節に「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神さまとの平和を持っています」とあるように、5章は、信仰義認の結実として「神さまとの平和」について論じています。「神さまとの平和」は、神さまとの「和解」とも言われていますが(10,11節)、信仰によって義と認められる以前の私たちは、「不敬虔な者」(6節)、「罪びと」(8節)、そして、神さまとの平和、和解が必要な「神さまの敵」(10節)であったと書いてあります。
信仰によって義と認められる以前の私たちは、「不敬虔な者」(6節)、「罪びと」までは、わかるのですが、神さまとの平和、和解が必要な「神さまの敵」とは、どういうことなのでしょうか。その真相をある牧師先生のお証を通して学びたく思います。
「私が救われる以前のことを思い返してみますと、自分はあまり意識していませんでしたが、神を神として認めず、高ぶり、神に対して反抗する者であったことを認めざるを得ません。神さまに対して、本当に失礼な態度をとってきたことを、とても恥ずかしく思います。大学受験をはじめ、目の前の目標に一生懸命生きてはいても、心には、いつも不安があり、自分がどこに向かって、何のために生きているのか分かりませんでした。自分が「神に敵対している」とは思っていませんでしたが、光である神に背を向け、「空中の権威を持つ」(エペソ2:2)という、サタンの支配に縛られていたのです。
しかし、友人との人間関係のトラブルを通して、それまで人ごとであったイエス・キリストの十字架が、私のためであったことが分かりました。涙があふれ、「もう、この方にお頼りするしかない」と、白旗を挙げました。「しかし、私がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神はわたしたちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ書5:8)とパウロが言う通りです。イエス・キリストを信じた時、永遠のいのちの希望が与えられました。子どもながらに、死を考えると、寂しくて、怖くて、泣きながら『人は死んだらどうなるの』と母に聞いたことを覚えています。答えが分からないまま、大学生になり、聖書を学ぶようになり、やがて、イエス・キリストを信じた時、人は死んで終わりではないことが分かり、安心と喜びが心に溢れました。このよき知らせを兄弟にも伝えたいと思いました。程(ほど)なくして、弟もイエス・キリストを信じて救われました。
ィエス・キリストを信じて義と認められる以前、試練に遭うと、激しく落ち込むことがよくありました。しかし、神との平和が与えられてからは、苦難にも意味があることが分かるようになりました。それは、聖書が言うように、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と知っているから(ローマ5:3,4新改訳)だと思います。神との平和を土台として、試練を通して、霊的にもずいぶん成長させていただきました。もちろん落ち込むこともありますが、本当に弱かった自分が、今は、イエス・キリストによって強められ、他者を助け励ますことが喜びとなっています。愛が冷めていた心に、聖霊によって神の愛が注がれ、絶えず、上から力をいただいていることを感謝しています。
私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいるのです。シャローム!神との平和の中に、今日も生かされてまいります。」
この先生のお証は、今も生き、昔も生き、未来永遠に生き働かれる、主のお働きをたたえる、素晴らしい証しだと思います。初代教会の人々は、互いに証をしあって迫害を乗り越えて行ったことを覚えたいものです。